開戦前夜のあれこれ1

2010/12/19 21:45


新名丈夫氏は「竹槍」事件で知られる。日日(現毎日)新聞の記者であったが、この記事「竹槍では間に合わぬ」により東条英機の怒りを買い、37歳にもなるのに陸軍に懲罰入隊させられた。氏が黒潮会(海軍省記者クラブ)に属していたことから、海軍が「このような老兵をたった一人取るのはどういうことか」と彼を庇った。ところが、陸軍はそれならというわけかどうか、新たに同じような年齢の者を250人集めて第11師団歩兵第12連隊に配属した。

新名氏は、このような経歴のせいか、その書かれたものを読むと陸軍憎しで、逆に海軍には好意的であるように受け取れる。
多くの人が知るように、前の大戦については主に陸軍が開戦を望み、海軍はこれに対して非戦を唱える者が多かった。ドイツ、イタリアとの三国同盟については、海軍は「アメリカと戦争することになる」ことを恐れ反対であった。その中心的人物は井上成美少将である。井上は「国軍は、わが国を守るために存在するのであって、他国の戦争に馳せ参ずるがごときは国軍の本旨にもとる」として、第一次世界大戦についても、日本が日英同盟を理由に参戦したのも邪道であるとした。5相会議が何十回と開かれても、海軍は井上の論を持ち出して肯わなかった。
井上成美は、海軍兵学校長となったときに、陸軍士官学校生徒との文通を一切禁止するほどの陸軍嫌いだった。また、大鑑巨砲主義に異を唱え、航空戦力の充実を説いた。

上のように、陸軍はしきりに戦争をしたがり、海軍はこれを避けたがっていた、という構図が浮かび上がる。つまりは、戦争が始まる前に既に別の戦争が行われていたというわけである。そして、結局この戦争には陸軍が勝った。昭和15年、海軍の米内光政内閣のとき、陸軍は駄々っ子のような策を打って出た。陸相の畑俊六大将が「内外新体制に即応」を要求して辞任すると、陸軍はその後任を推薦しないという奇策に出たのである。このために米内内閣はわずか六ヶ月の短命に終った。
この後を継いだのが7月22日に誕生した第二次近衛内閣である。この内閣では外相に松岡洋右が就任し、英米派の大公使ら50数人の外交官の首を切った。外交転換の準備であった。この直後といってもよい9月7日にヒトラーの特使としてハインリッヒ・スターマーが来日、松岡とわずか10日の交渉で日独同盟を妥結させた。同盟が発効したのは9月27日である。
しかし、この同盟は、松岡が当初考えていた通りのものではなかった。松岡が望んでいたのは、ソビエトをこの同盟に加えることであった。ソビエトをこの同盟に加えることこそ、天皇三国同盟を許した理由になっていたのである。
ところが、ドイツにはこれを重要視するつもりは最初からなかった。翌16年3月、松岡がベルリンを訪れたとき、それが明らかになった。ヒトラーもリッベントロップも口を揃えて「ソビエトに対しては、一度打撃を与えなければ、欧州の禍根は到底除かれない」と言ったのである。
松岡は、これもあったのであろう、帰途モスクワに立ち寄りスターリンとの間に日ソ中立条約を締結した。