鎮男16

2012/06/03 14:30


石田防衛大臣は、大柄で非常に明朗な人物だった。私は、一目で好感を持った。
「まぁまぁ、どうぞ、お掛けください」彼は、この危急の折にも関わらず、にこやかに立ち上がって私を席に座らせると、自らも椅子に腰を沈めた。それを合図のように、SPも幕僚幹部らしき男たちも、また先ほどの幹部自衛官や秘書官ら10人以上いた大臣の取り巻きは一斉に隣の部屋へと移った。いったい何事が始まるのかと身を固くしている私を見て、大臣がこほんと一つ咳払いをした。
そして、
「大友さん。あなたには、大変な失礼をしてしまいました。心よりお詫びを申し上げたい」そう言って、頭を垂れた。
しかし、次に大臣が顔を起こしたときには、岩のような厳しい表情が宿っていた。
「しかしながら、私は、あなたにただお詫びをするためにお越しいただいたわけではありません。実は、あなたもご承知の通り我が自衛隊内部は、陸海空の全てにおいて極めて憂慮すべき事態となっております。このようなことを一民間人であるあなたにお話しするのは、極めて異例、かつ不自然なことであり、あなたが驚かれておられるのも無理からぬことと承知はいたしております。しかし、実はつい今しがた、ある重大な情報がアメリカの政府筋から日本政府にもたらされたのです」
「はぁ」私には何のことだかさっぱり分からなかった。私は、無力感に襲われた。隣に鎮男がいないことがかくも私を無力にさせていた。
「その情報と言うのは、最高機密とされているのですが、こうしてあなたにお話をしているのは、それがあなたとあなたのご友人に関することだからなのです」
大臣は、私の顔色を窺うように見ている。
「何か、お心当たりがおありですかな」
「……」私は、少し言葉に詰まった。「私の友人と言えば、鎮男という名の私より二つ年上の男のことしか思い浮かびませんが」
「ほうっ」大臣は、興味深そうに声をあげた。「それで、そのご友人は、今どこに」
「大臣……」
私は、先ほどから気になっていたことをついに訊く決心をした。
「あなた方は、私たちのことをずっと見張っておられたのではないのですか」
「ええ。確かに、仰るとおり、私どもはあなたの行動には重大な関心を寄せておりました。それは、今回の事態収拾のためにこのホテルに対策本部を置いたときからのことです。私が知るところによると、あなたは10日前にこのホテルの1501号室、つまりこの部屋とは反対のスイートを予約されています」
「ちょっと、待ってください」私は驚いて大臣の言葉を遮った。「私ではありません。このホテルを予約したのは、私の友人の平鎮男です。彼のことは、あなたがたも知っておいでのはずです」
「しかし、私が受けている報告では、確かにあなたの名前で予約がなされているとのことでした。それに、あの部屋には、あなたお一人だけで宿泊されており、鎮男なる人物の宿泊は確認されておりません」
「そ、そんなばかな」
驚きながらも大臣の顔を見ると、彼の方もあっけに取られたような、気分を害したような表情を浮かべていた。
「しかし」と、大臣は、すぐに表情を和らげ私をまっすぐに見つめながら話し始めた。「あなたのご友人については、私もその存在を疑っているわけでは決してありません。なぜなら、NSCからの……、アメリカ国家安全保障会議からの連絡によると、今回の世界的異常事態の背後には、何らかの大掛かりな陰謀があり、その陰謀により世界中にばら撒かれたコンピュータウィルスが原因ではないかと疑われています。そして、そのウィルスの脅威をいち早く予知し、その危険性を世界中の科学者や政治家に訴えていた人物が日本におり、その二人の人物の名前が大友康太郎氏と平鎮男氏であるということをNSCが合衆国大統領の署名入りで知らせてきたのです」
私は固唾を呑んで大臣の話を聞いていた。アメリカのNSCが乗り出してきているということは、この事件が鎮男の恐れていた通りの、そして、まさに明彦が宣言した通りの、人類を滅亡に至らしめるに足る、途方もなく大規模で、かつ緻密に計算された計画であることを証明していると思われたのだ。そしてまた、もう一つの疑念も同時に生じてきた。それは、NSCが、そして日本政府が、私と鎮男をその陰謀の立役者として考えているのではないかということだった。
「世界中の軍隊がわけの分からぬ混乱に陥っています」石田大臣は、じっと私の顔を見据えたまま言葉をつないだ。「アメリカもイギリスも中国も、そしてフランスやロシアまでもが決してクーデターや反乱ではない、かつて想像すらされたことのないほどの……、未曾有の……、カオスに陥っているのです。このままでは、世界は、偶発的核戦争によって滅亡しかねない」
大臣の顔色は、心なしか青ざめてきたように思えた。
「その原因をNSCは掴んでいるのでしょうか」
「ええ。どうやら、それが何らかの陰謀による、大掛かりな一種の集団催眠であるということまでは分かっているようです」
石田大臣は、私の表情から何かを汲み取ろうとしていた。
「集団催眠?」
「はい。しかし、勿論それは、催眠とは言っても催眠術によるようなものではなく、人工的な機械装置によるものだそうですが」
防衛大臣は、その装置の名前を口にしなかったが、私にはおぼろげながら、その装置の映像が頭に浮かんでいた。それはMRIだった。しかし、私は敢えてその名を発するのを控えた。
「大臣。あなたは、われわれがウィルスの脅威について世界中に訴えていたと仰った。そのことと集団催眠とにどのような関連があるとお思いなのですか」
「それは、あなた方のほうが詳しいはずでは……」
 私は、意を決した。鎮男も決して反対はするまい。
「大臣、正直に申し上げましょう。私と平鎮男は、武藤明彦と言う少年のことを追っていました」
「武藤明彦? どこかで聞いたような気もするが……」
「彼は、この世にはすでに存在しません。数年前に亡くなっています」
「ほう。それで、すでに亡くなっている人物を追っているというのは、……いったいどういうことですかな」
私は、その言葉で、さすがのNSCも明彦のことまでは掴めていないとの確信を持った。
「武藤明彦は、その頃、もっともフィールズ賞に近い日本人と言われた数学の天才少年でした」
「おおっ」大臣は、小さく驚きの声を上げると、頭の中のしこりが氷解したような、すっきりした表情を示した。「あの少年でしたか」
「はい。しかし、残念なことに、彼は自死を遂げました。詳しい理由は分かりませんが、彼は、この世に強い憎しみを持ったまま死んでいったようです」
「しかし、それと今回の件とにどのような関係が……」
「はい。平鎮男によりますと、彼、明彦は、死ぬ前に世界を破滅させるようなある種の数式をウィルスにしてばら撒いたと言うのです」
「なるほど」大臣は大きく頷いた。「しかし、どのようにしてあなたのご友人である平さんは、そのようなことをお知りになったんでしょう」
私は、これまでの経緯を詳しく大臣に話して聞かせた。