鎮男21

2012/06/03 14:53


ラプラス本社は、楓や紅葉、銀杏、それにポプラなどの木々に囲まれた広大な敷地の一画にあった。少し前までなら、これらの木々があたかも金屏風のように、その奥にある空間を神秘的なものにしていたはずだが、今はすっかり金や銅色した葉を落とし、針金細工のような細い梢が湿気を帯びた薄青の空にシルエットを残しているだけだった。
パステルカラーに塗られた工場や研究施設、それに体育館などの福祉施設が整然と配置されているのが車窓からもよく確認できた。
その中でも一際立派な本社の駐車場に私たちは車を滑り込ませた。10階建ての本社ビルは、ベージュ色した大理石の肌を持つ瀟洒な造りで真新しかった。
私たちは、女性秘書に案内され9階にある武藤取締役の執務室に入った。そこは広々とした、シックなペルシャ絨毯の敷きつめられた豪勢な部屋だった。大きなガラス窓のはるか向こうにペールブルーの寒々とした雪山の連なりが見えた。
その窓を背にして、武藤良也は、彼自身がひどく小さく見えるほど大きな机を前にパソコンのキーを打っていた。
彼は、女性秘書に2度目に声を掛けられ、ようやく気がついたかのように顔を上げると、無愛想な表情のまま立ち上り、われわれに応接間を指さした。

この最初の印象どおり、武藤良也は倣岸極まりない無礼な輩だった。背の高さはおよそ170センチ。小太り。茶のスリーピースに黄色いシャツ。趣味の悪い火炎模様の真っ赤なネクタイを締めた猪首の上に不快という字を大書した顔があり、くせ毛の強い白髪混じりの髪がその上に乗っている。
縁のないアンバー色をした眼鏡を掛けていて、その奥に猜疑心の強そうなぎょろ目がある。鼻も口も大きいが、それら三つのパーツが相俟って大らかさというよりは暴力的な雰囲気を醸し出していた。
よほどゴルフにでも精を出しているのであろうか、白いものの混じる頬髯と顎鬚がタン色に日焼けした顔の輪郭を隠していたが、およそ明彦の端正な顔とは違い、顎の張った醜男の典型とでも言うべき容貌をしていた。
「おやじが是非会ってやってくれというから、どのような重大な用件かと思えば、飛行船会社の社長さんとは、これはまた、最初から中身のある話とは思えませんな」私の名刺を受け取ると、いきなりそう曰わった。
半分冗談なのだろうと憤る腹を納めたが、どうもそうではないらしい。自分から先に応接の椅子にどっかと身を沈めると、顰め面をしたまま、それでも私たちに座るよう手を伸ばして見せた。鎮男は、自身を紹介する機会を失していたが、まったく気にもしていないようだった。
私は、良也の背後に仏像の光背とはまったく正反対の気味の悪い赤紫色をしたオーラが漂っているのを見た。何食わぬ顔とはよく言うけれども、口の周りを今食ったばかりの鼠の血で真っ赤に染めた茶色い猫を見たような気がした。やはり、鎮男が正しかったのだ。それは、この男に巣くう悪を、そして過去の悪行を表しているのに違いなかった。
私は鎮男の顔を見ながら座ったが、彼の方はいつもどおり不動の表情を崩さない。ただ、いつもと違うのは、誰の目にも最高級品と分かる仕立ての良い銀ねずのスーツを着こなしていることだった。真っ白なシャツに真っ赤な幾何学模様のネクタイが良く映えている。私は、そっと安堵のため息をついた。今このような倣岸不遜な男を前にすると、如何に鎮男が頼りになるかが分かる。
「それで、どのような用件ですかな。まさか、うちに飛行船を買ってくれなどという話ではないと確信しますが」
「明彦君は、あなたの本当の息子さんですか」
落ち着いた静かな声だったが、鎮男のその奇襲は、良也に痛烈な打撃を与えた。陽に焼けた顔がたちまち葡萄色に変った。
「なんだとぉ」良也は、唾を飛ばして叫んだ。「いきなり、無礼にもほどがある」
「思ったとおりだ。やはり、違うらしい」鎮男がまったく動ぜずに言った。「いえね。写真で見る明彦君とあなたの容貌、体格が余りに違うので、つい訊ねてしまったのですが、明彦君は、あなたの亡くなった奥様、武藤淑子さんの前夫で、わずか25歳で夭折した天才物理学者、伊地知義明氏の忘れ形見ということで間違いありませんな」
私は驚いて鎮男の顔を見た。その表情は凛として動かない。
さすがの良也も気圧されたように、しばらく言葉を失していた。

「そんなことを、そんな私のプライバシーに関わることを調べたくてここにやってきたのか」
ようやく落ち着きを取り戻すと、良也は鎮男を睨みつけるようにして言った。
「いいえ。そうではありません」鎮男がきっぱり否定する。「ただ、あなたもご承知のように、つい先日まで自衛隊、そして世界中の軍隊という軍隊が非常に混乱した危険な状態にあった」
「ああ。そんなことなら子供でも知っておるわ」
「その事件に、どうもあなたの義理の息子さんが関わっているようなのです」
そのとき、良也がふんと鼻を鳴らしたような気がした。
「その明彦ならずっと前に死んでおる。ご存じではなかったのかな」
「勿論、承知しております。そしてまた、あなたの義理の息子さんは、伊地知氏の血を引かれただけあって、大変な天才だったとも聞いております。実は、その彼がわれわれにあるメッセージを残してくれていたのです」
「あんたがたにメッセージを」良也は怪訝な顔をした。「あなたがたと明彦にいったいどのような関係があったと言うのですか」
良也の口調が少し丁寧になった。そして、それと歩を合わせるかのようにその顔に少しずつ警戒の表情が浮かびはじめていた。
「彼は、明彦君は、自分と同程度以上の頭脳の持ち主にしか気づかれないような方法でメッセージを残すことを考えたようです」私は、鎮男に代わって良也に説明した。
「ほう」良也は、馬鹿にしたように私を見た。「その天才がまさかあなたということではありますまいな」
「もちろん、違います」
「そら、そうでしょうな。そんな天才であれば、飛行船会社の社長などで止まっておられるはずがない」
私はいい加減辟易していた。こいつは、まったく口の減らないガキのような男だ。しかし、ここで怒りを爆発させたのではこれまでの辛抱が水の泡だ。
「その通りです。しかし、私の隣の男こそがその明彦君に匹敵する天才なのです」
「ほう、そうですか。それは、それは、大変お見逸れした」良也は、鎮男に視線を移し舐めるように見た。
「私は、残念なことに、自分のことを天才だなどと思ったことは、ごくごく小さいときを除いてほとんどありません。おそらく、明彦君もこの点では同じだったと思います。天才などどこにでもいるものです」
「なるほど、ありがたい天才の言葉をお伺いできて光栄ですな」
「ところで、その明彦君が残したメッセージについてですが、お知りになりたくはありませんか」
鎮男は、良也の一瞬の表情の変化も見逃さないかのように身じろぎもしないで見ていた。
「別に知りたくはありませんな。しかし、それが今回の件と何か関わり合いがあると仰ってるからには、私にも親として知る義務があるぞということなんでしょうな」
「あるいは、ラプラス社の経営者として」
「それは、どういう意味ですかな」
「実は、御社の製造になるMRIにも今回の事件に深く関わっている疑いがもたれています」
「ほう」と、良也は驚いた様子を見せない。「わが社のMRIがどのようにあの事件と関わっていると仰るのですか。場合によっては、名誉毀損で訴えることも辞しませんよ」
私は、だんだんとボクシングの試合を見ているような気になってきた。初め、良也は嵩にかかった態度で攻めかかってきた。しかし、鎮男にはそんなはったりはまったく通用しないばかりか、逆にボディーブローを2度3度と浴びせられ、ジャブやストレートを打って逆襲を図るもいとも簡単にスウェイで逃げられてしまう。こいつは、とても手に合う相手ではないと分かってくると、クリンチで逃げたりサミングをやったりと、ダーティーなボクサーの本性を現してきたのだ。
「御社のMRIには、―-恐らく明彦君の開発によるものでしょうが、人間の脳にアクティブに作用する要素が組み込まれている」
鎮男は、確信でもあるのか、まったく私が知らないことをここで明らかにして見せた。
「何か証拠でもお持ちですかな」
見ると、良也は不快そうに腕組みをしている。
「それを証明するのは、それほど難しいことではない。私の知り合いに頼んで、御社のMRIを徹底的に調べれば分かることだ」
「なるほど。しかし、まだそれをやってはいないということですな」
「武藤さん」鎮男が隣の私も驚くようなどすの効いた声で凄んだ。「とぼけるのはそろそろ止めた方がいい。あのMRIを悪用したのはあんたでしょう」
「あ、悪用だとっ」良也は目の色を変えて見せた。「あんたに、そんなことを言われる筋合いはない。だいたい、他人の屋敷に上がってきて無礼にもほどがある。これ以上、私はあんたがたと話をする気はない。とっとと帰ってくれ」
鎮男が静かに立ち上がった。私もそれにならって立った。気がつくと、秘書らしき若い女性が両手に盆を持ったままじっと立っていた。鎮男は、その盆から茶碗を取ると一息に飲んだ。
「ありがとう。おいしかったよ」そう言って、茶碗を盆に返すとにっこり笑ってみせた。そして、そのままトップコートを掴むと何事もなかったかのようにドアに向かった。私も彼女に会釈を返して彼に続いた。