鎮男34

2012/06/08 22:30

 

良也が町中で車を停めさせた。そこは、小さな個人病院の前だった。玄関の看板灯はとっくに消されていた。
雨が激しくキャディの幌を叩きつけ、会話さえままならない。良也は、ジローとコンドーに大声で命じて、その病院の駐車場にまぁちゃんを捨てさせた。口からガムテープを剥がすと、意識の戻ったまぁちゃんは「いてぇいてぇ」と大声で泣き始めた。しかし、猛烈な雨と風の音に消されて、その声が近所に届く恐れはなかった。

 

良也は、1キロほど離れた繁華街の公衆電話の前で再び車を停めさせた。タバコを取り出し一本口にくわえる。すかさずジローがライターの火を差し出した。良也は、一服吸い付けるとしばらく思案していたが、煙を吐き出すと同時にポケットからメモを出しジローに渡した。

「ええか。指紋は絶対に付けんようにせぇ。10円玉にもやで」

ジローは再び土砂降りの外に飛び出した。

僅か数メートル先の公衆電話ボックスに入ったときには、頭のてっぺんから足のつま先までぐっしょりで、青いボールペンで書かれたメモの数字は、すでに判読不能なくらいに滲んでいた。それでもなんとかブースのガラスにそれを貼り付け、薄暗い照明の下、良也にどやされるのが怖さに必死で数字をなぞった。そしてダイヤルを回す。しかし、そもそもそれは、良也が思いつきで書いたでたらめな番号だった。

「お宅の駐車場に誰かが倒れとるようですよ」ジローは、電話口に出た眠たそうな声の女にそれだけ告げるとすぐに電話を切った。

それから、十分後。良也は、何台もの消防車がけたたましいサイレンを鳴らしながらすれ違うのを含み笑いしながら見送った。

遠くの方で真っ赤な炎が土砂降りの雨に反射しているのが見えた。

「わしの作った時限発火装置がうまく作動したようや」良也は、蚊取り線香の屑とキャディから抜き取ったガソリンを布に染み込ませて作った即席の時限発火装置を頭に思い浮かべた。「これで、証拠はすべて消えたし、保険がおりて親父も喜ぶやろう」

これだけのことを体験するのに、いったいどれだけの時間を要したのだろう。しかし、それは、人が死ぬ間際に全人生を回想するというように、刹那の出来事にすぎなかった。

私は、鎮男の表情を見ることが出来た。鎮男の顔は、いつもとまったく変らないようにも思えたが、私はその立ち姿に不動明王を見ているような気がした。彼の全身を真っ赤な怒りのオーラが包んでいるように思えたのだ。

そして、信者たちの方を見ると、彼らもまた、その真っ赤な衣装のせいだけではなく、良也に対する怒りで燃え上がっているように思えた。

ふいにまったく別のイメージが現れた。

美しい女。決して若くはない。しかし、気品と教養に溢れたその姿は、明彦の母、淑子のものだった。

「やはり、あなただったのね」女は、怒りに震える声でそう言った。

「なにが俺だったのだ」良也が応える。

そこは、つい先日、鎮男と二人で行った良也の執務室だった。良也は、この間のときのように机を前にしており、淑子は秘書のように机の前に立ったままだった。

「伊地知義明を殺したのは、あなたでしょ。その証拠を私は掴んだのよ。私は愚か者だった。夫が私にあなたが犯人だと教えてくれていたことにまったく気がつかずにいた」

「彼が、……伊地知さんがおまえに何を伝えたと言うんだね」良也は、すこし動揺していた。だが、その動揺を表に現すことはなかった。

「義明さんは、あなたが非常に危険な、根っからの悪党だと、そして自分を殺そうとしているということを論文の中に暗号として潜ませていた。それを私は、明彦に指摘されるまで気がつかなかった」

「あの伊地知さんが、私のことを悪党だと言ったというのかい」この段に及んでも良也はとぼけて見せた。それは、淑子からなるべく多くの情報を引き出すための策略でもあったのだ。

「いい加減にとぼけるのはおよしになったら。あなたが悪党だということを誰も知らないとでも思っていらっしゃるの」淑子の声は震えていた。

「それで、俺が悪党だとして、これからおまえは、夫である俺をどうするつもりなんだね」

「ふん」淑子は鼻で笑った。「私は、一度たりともあなたの妻だと思ったことなどないわ。父は私以上に愚かで、まんまとあなたの策略に引っ掛かり、会社まで奪われてしまった。しかし、その父も今度ばかりは私の言うことを信じてくれたわ。あなたの殺人を公にすれば、法的には時効が成立していても社会的にあなたは葬り去られるわ」

「証拠はあるのかね。わたしが伊地知さんを殺したという証拠が……」

「それは、もうすでに世界中に流布されているわ。伊地知理論としてね」

「彼が発表した理論の中に私が彼を殺したと書いてあるというのか。君は恐らく気が狂ってしまったに違いない」

「まぁ、お好きなようにおっしゃってればいいわ。じきに週刊誌が騒ぎ出すから」

「君たちは、私と刺し違える気でいるというわけかね」

「刺し違える?」淑子がびっくりしたような顔を浮べた。「何をおっしゃってるの。私たちは、あなたの被害者であって、世間の同情を浴びこそすれ、批難されることはないわ」

「まぁ、いい。しかし、君が考えているようには、世の中というものはそう単純にはいかないよ」良也は、何か魂胆でもあるのか余裕の表情で言った。

実はその魂胆を、私は、いやこの場にいる者たち全員が知っていた。このとき、すでに良也には、淑子を殺す計画がしっかりと頭の中に立てられていたのである。

計画は、実に恐ろしいものだった。良也は、既に淑子のすべてを、その心の内を、自分に対する激しい憎しみさえも精確に知っていたのである。

良也は、ちょうど今、自分自身の心がこの場にいる者全員に晒されているのと同じように、淑子についての、その過去のすべての記憶を我が身で体験して知っていた。淑子は、良也の巧みな操作によって、アートルム社製最新鋭MRIの被験者になっていたのである。そうして、彼女の人的ネットワークも完璧なまでに良也に掌握されていた。

翌深夜、淑子は愛車である真っ赤なBMWで湾岸を駆っていた。ドライブは、彼女のストレス解消手段だった。

アートルム社東京研究所、無機生命開発部長である淑子には、いつも心労が絶えなかった。仕事上のストレスはともかく、一番の頭痛の種は、戸籍上の夫である良也だった。

彼女は、良也が何人の愛人を囲い、どのような破廉恥な行いをしていようが蚊に刺されたほどにも感じなかった。ただ良也が自分の夫であるという事実が、そして自分との結婚を利用してアートルムを乗っ取ったという事実が彼女の心を強く押しつぶしていたのだ。

淑子は、伊地知義明と暮らしていた本郷の小さな家に明彦と二人で暮らしていた。だが、その明彦も昨年からイギリスに留学しており、今は小さな家がずいぶんと広く感じられた。

良也との結婚は最初から破綻していた。というより、成立していなかった。父親の強い懇願に負けて良也を籍に入れたものの、良也のような男は生理的にまったく受け入れられなかった。1m以内に近づいただけで虫唾が走り、鳥肌がたった。それでも、親類や会社や何かの公式な行事があるときには、二人揃っていかにも仲の良い夫婦であるかのように装わねばならず、また息子を良也の実子であるかのように半ば強制させられるのが苦痛で仕方がなかった。