鎮男35

012/06/08 22:31


彼女は、走り屋たちに混じって、くわえタバコで湾岸を飛ばしながら、いかにして良也を社会的に葬り去るか、その方策について考えていた。
15歳になったばかりの明彦は、彼女も驚嘆するほど大人だった。彼は、留学先から手紙を送ってきて、良也が自分の父親を殺した犯人である証拠を掴んだと彼女に知らせたのだが、その手紙は極めて冷静で、決して自分が帰国するまでは行動を起こさないよう母親を諌めていた。良也のように危険な悪党は、外堀を埋め、内堀を埋めてというように、よほど慎重に事を運ばないと手痛い逆襲を蒙ることになると彼女を説いたのだ。

しかし、彼女にはそんな悠長なことは出来なかった。彼女のハートは、愛する夫を殺し、会社まで奪った男に対する憎しみで激しくいきり立っていた。それで、昨日、後のことも考えずにあのような宣戦布告をしてしまったのだ。

勿論、彼女の考えていた戦術は緻密なものだった。信用のおける友人でもある週刊誌の編集長と会い、彼を説き伏せた。

最初、その古川という編集長は疑心暗鬼でまったく乗り気ではなかった。だが、伊地知の論文と明彦の手紙を見せられ、そして暗号の解読方法を説明されると、はっと目が覚めたようになった。

「これは、凄い」古川は、論文と淑子の顔を交互に見比べながら驚きの声を漏らした。「これはほんとに凄い。こんな特種は、一生に一度あるかないかだ」

「それじゃ、あんたは、これを週間見聞録に載せてくれるのね」淑子は、期待に顔を上気させていた。

「ああ、勿論だ。早速特集を組もう」古川は、淑子の反応を見て微笑んだ。が、すぐにその顔を引き締めた。「しかし、君の息子さんが言う通り、これは、一つ扱いを間違えると大変なことになりかねない。なにしろ、君の旦那は、世界に冠たるラプラス社の実質的トップだからな。それに、確かにこの論文は、伊地知氏が書いたものであることは誰も否定のできない事実だが、これに書かれていることだけをもって、武藤良也氏が伊地知を殺した犯人と決め付けるには少し無理がある。――それは、君にもよく分かっているはずだ」

古川は、淑子の顔が曇るのを見ながら言葉を継いだ。「――しかし、まぁ、これは間違いなく日本中を、いや世界中を騒がす大スキャンダルになることだけは請合うよ」

これがつい一昨日のことだった。彼女には大きな目的があった。それは、このスキャンダルを彼女自身が公表することによって、良也との離婚を一気に成立させることだった。それに、うまくすれば良也を今の地位から引きずりおろすことが出来るかもしれない。

彼女は、一時の気の迷いから、というより一種の錯乱状態から父が強く勧める良也との結婚を諾ってしまった。そして、結婚届に判を押したその瞬間に間違いに気がついた。

「よりにもよって、なぜこのような男と」

彼女は、我が身の愚かさに愕然とした。しかしそれは、自分の腹に鎧通しを突き刺してしまってから、しまったと後悔するようなものだった。

淑子は、結婚したその瞬間から一刻も早い離縁を願うようになった。良也のような男は、彼女が嫌いな蛇と同じで生理的にまったく受け入れられなかった。そして、明彦も大きくなるにつれ、ほとんど会うこともない継父だったが、良也を極端に嫌うようになった。

明彦は、14歳のときにはすでに数学の天才として世間の耳目を集めはじめていたが、自分が世間から顔立ちも体格もまったく違う良也の実子と思われていることに酷く嫌悪感を抱いていた。しかし、それを否定すれば否定するほど、世間の目は自ずと母と良也の関係に集まり、母の立場を危うくすることになる。それがよく分かっていたから、明彦は自ら進んでイギリスに留学し、世間の好奇の目から逃れたのだ。

冷静慎重な明彦に比べ、淑子は、生まれついての行動家だった。しかし、今回は余りに性急過ぎた。しかも、戦いの火蓋を切る前に、敵に有利な情報を与えてしまっていた。

結局、その判断の誤りを彼女は自らの死によって購わねばならなかった。

彼女は、ステアリングを操りながら時々目の前がブラウン管の砂嵐のようになるのを感じた。危険を感じてすぐにスピードを落とそうとしたが、そのとき、ウィンドシールドに良也の顔がクローズアップになって現れた。

「淑子」良也は、怒鳴るように彼女の名を呼んだ。「おまえは、とうとう俺という人間を一度も愛することなく、この世を去ることになった」

その瞬間、彼女は自分の下半身が他人のものになったように感じた。彼女は、ブレーキペダルに乗せた左足がまったく動かず、代わりにアクセルに置いた右足が自らの意志に反して力いっぱい床まで踏みつけるのを恐怖に慄きながら見ていた。愛車は、キックダウンして強烈なGを発生させ、淑子の背中をシートバックに押し込んだ。そして、そのまま鋭く加速しながらカーブに突っ込み、曲がりきれずガードレールに激しくぶつかった。真っ赤なBMWは、ガードレールに弾き返されて、ひっくり返った亀のように黒い腹を見せて横転し、そのまま水平に激しくスピンしながら路上を滑っていった。オレンジ色の火花が激しく飛び散って、やがて給油口から噴出したガソリンに火が点いた。車は逆さまのまま中央分離帯に乗り上げ、そこでもう一度ひっくり返って元に戻った。

武藤淑子は、「地獄変」に描かれた若い絵師の娘さながらに紅蓮の炎に包まれて死んだ。