悲母観音像 9

2013/02/26 10:26

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鶴見太一は、今年66歳の誕生日を病院で迎えた。退院した後も、このごろではインターネットでチャットをするのがもっぱらの楽しみになっていた。60歳のときに妻をがんで亡くして以来、ずっとやもめ暮らしを続けてきた太一の家は、それでなくても雑然としていたが、昨年幼い孫を亡くしてからは、それがいっそう酷くなった。まったく手入れをしなくなった庭や畑には人の背丈を越すまでに雑草が蔓延り、家の中は蜘蛛の巣だらけという有様だった。縁側や座敷の畳の上にも蝉やトンボや蛾や黄金虫などの死骸が散乱していた。
好きだった川釣りにもまったく出かけなくなったが、唯一彼が生きがいを見出しているのがインターネットだったのである。

孫を亡くしてからしばらくは、悲しみのあまり、太一は全く飯が喉を通らなくなった。わずか4歳の、何の罪もない幼子を虐め殺した男のことが憎くて、一睡もできない日が続いた。そんなときに、襖一枚隔てた隣の部屋からばかな娘の大鼾が聞こえてくると、今すぐにでも台所から包丁を取り出して一息に刺し殺してやろうかとさえ思ったほどだ。

そんな日が一月ほど続いた挙句、太一は脳卒中を起こして倒れてしまったのである。幸い、娘がすぐに気がついて119番したため、大きな後遺症を残さずに済んだ。左半身に軽い麻痺があったが、薬とリハビリによって3ヶ月で退院できた。パソコンを覚えたのは、その病院でリハビリを兼ねてのことだった。

鶴見の一番のチャット相手は、10歳の少年だった。彼とは名前の音が良く似ていることもあって、妙に気が合った。すぐに二人は、お互いをたいっちゃん、たいきと呼び合うようになった。
その少年――大樹がずば抜けた頭脳の持ち主であることに太一はすぐに気がついた。
「この子は、並の大人以上の頭と幼児のように純粋な心を併せ持っている」
太一は、この無垢な少年と汚れきった世の中について話をすることで少しずつ心の平安を取り戻しつつあった。とは言っても、丸木良也に対する憎しみの方は、衰えるどころか日増しに大きくなっていたのだが・・・・・・。

その大樹から、驚くようなメールが届いていた。
「たいっちゃん。明後日、9月15日にT市X駅前に都築拓海先生の手になる彫刻が建立されることを知っていますか。その式典に丸木市議とその息子、丸木良也が出席します。市議の狙いは、息子を社会復帰させ、自分の名誉を回復させるための禊にあると思われます」
太一は、大樹が哀れな自分の孫について心を痛めていたことは良く知っていた。この少年は、そのことを知った上で、いや、そのことを知っていたからこそ、俺のような年寄りと付き合ってくれているのだ。
太一は、大樹が自分に孫の復讐のチャンスを与えようとしているのだと確信した。
「たいき、おれにもっと情報をくれ」太一は、すぐに返信した。
そして、太一が予期したとおり、大樹から極めて詳細な当日のスケジュールと参加者の名簿、当日の天候予報などの情報が送られてきた。そして、最後に次のような文言でとじられていた。

「人間の正義を実現できるのは人間だけです」

***

丸木良也は、いよいよ自分の将来に光が射し込んできたのだと感じていた。親父の秘書が面会にやってきて、式典について話をした。その話を聞いたとき、良也は思わず吹き出しそうになった。
「出所祝い? 式典?」良也は、大きな目をぎょろつかせながら親父の秘書に向かってばかにしたように言った。「いったい、親父は何を考えているんだ。落語の三題話にしちゃぁ、お題が一つ足りないじゃないか」
しかし、秘書が事の成り行きを細かく説明すると、しばし沈思黙考してみせた。
「すると、その観音様が三つ目のお題というわけか。・・・・・・何か、企みがありそうだな」
「と、仰いますと」秘書が怪訝そうな顔をした。
「いや、何でもない」

もう一つの兆しは、新聞社からのインタビューだった。相手は若い女性記者だった。少年犯罪について取材していて、たまたま良也の起こした事件に興味を持ったのだと言う。
少年刑務所の所長が特別に許可を出して、良也はインタビューを受けることになった。

「X新聞の社会面を担当している清家です」その女は、ボイスレコーダーを用意していた。「さっそくですが、あなたは罪を償って、もうすぐここを出られるそうですが、今の心境を聞かせてください」
良也は、腹の中で笑っていた。「心境だと・・・・・・。そんなもの、嬉しくてザーメンが出そうなくらいだとでも言ってもらいたいのか。てめぇ、もう少し、気の利いたことを訊けってぇんだよ」
しかし、その代わりに口をついて出たのは次の言葉だった。
「あの子のことは、本当に悔やんでも悔やみきれません。これから、社会に出て、行動によって罪を償っていこうと考えています」
女性記者は、メモを取っていた。その彼女が、不意に顔を上げた。
「ところで、あなたのお父上は、T市の議員でしたね」
良也は、はっとした。この女は、いったい・・・・・・。
「そして、あなたの出所を祝うために盛大な式典を催されると聞いていますが、それについて何か感想をお聞きかせ願えればありがたいのですが」
「このくそあまぁ」、と良也は腹の中で怒鳴った。しかし、やはり口をついて出たのは、面従腹背そのものの言葉だった。
「まったく、恥ずかしいことだと考えています。これでは、私を世間にさらし者にするようなものです。しかし、父としては、私に試練を与えているつもりなのかもしれません」
良也の耳は、自分の口から出る言葉を誰か他の服役囚からのもののように聞いていた。なんと殊勝な言葉がすらすらと口をついて出てくるものよ、と。
「それと、もうひとつお聞かせください」女は、良也の目を見据えている。「大変失礼とは思いますが、その丸木市議とあなたは、お顔も体格も余り似ていないように思えるのですが、丸木市議はあなたの本当のお父上ですか」

良也は、ひどく腹を立てていた。女でなければ、俺はこいつを殴っていただろう。
「さぁ、俺にはわかりませんねぇ」思わず、俺が口をついて出た。「あんただって、あんたの親父さんが生物学的にほんとの父親かどうかは分からんでしょう」
「残念ながら、私には父親はいません」
「ほう」良也は、疑わしそうに清家という女の顔を見た。「それは、お気の毒に」

インタビューはそれで終わった。良也は、少し落胆した。彼としては、世間を欺く、いや、世間に対して如何に自分が反省をしているかをアッピールするチャンスと考えてこの取材に臨んだのだった。

***

9月15日は生憎の曇天だった。風も強く、地上5mにも及ぶ銅像に被せられた白く分厚い布は、裾の部分がロープできつく絞られていたが、それでもばたばたと音を立てて暴れた。観音像を前方正面に置いて幅7,8m、奥行き10mの広さで囲んだ紅白の幕も風で激しく波打って暴れた。
幕の外には近くの派出所から警官が4人出て警備に当たっていた。2名が幔幕の入口を挟んで両側に立ち、残る2人は、会場を少し離れた駅の側に一人、そして駅と反対の商店街の方に一人が立って警戒している。そのほかに交通係の警官が2名、10時の式典に合わせ到着するはずの市の関係者たちの車を案内、誘導するために動員された。
9時50分、T市長を始めとする一行が駅のロータリーに現れた。警官2名が機敏に車を誘導し、広場前に寄り付けさせた。

都築は、昨夜市内のホテルに一泊した。そして今朝9時に電車でこの駅に降り立ち、今は幔幕の中で市の総務課長から式次第について説明を受けていた。幕の中には、パイプ椅子が三十脚と、スピーチ用の演台、それに銅像の両側にスピーカーがセットされている。演台の正面に小さなテーブルが置かれていて、その上に赤い大きな押しボタンが用意されていた。都築は、そのボタンの前に立ち、白い布に包まれた自分の作品を見上げた。
都築にとっては、ベールは無きに等しかった。彼には観音の姿がまさに透けて見えたのである。それは、自身の作でありながら、彼を威圧、圧倒させた。都築は、それが観音像に魂が宿ったためと知っていた。その魂とは、勿論、古川大樹のあの不憫な幼子に成り代わって復讐を遂げてやろうという強烈な意志に他ならなかった。

やがて市や学校、それに児童福祉施設関係者たちが次々と駅の方から姿を現し始めた。電車を利用した者たちは、何人かずつ組になり、賑やかに言葉を弾ませながら会場へと近づいてくる。そうして、ダークスーツに黒光りのする靴が、またちらほらとピンクや黄の華やかなスーツが幔幕の中へと吸い込まれていった。
休日のため、駅の利用者は少なかったが、それでも一般の市民たちは、これからいったい何が始まるのかと、幔幕の方に一様に首を傾けながら通り過ぎていく。実は市民は、まだこの観音像について何も知らされていなかった。ただ、この駅をよく利用する者たちは、なにやら昨夜まで賑やかに基礎工事が行われていて、何か銅像か記念碑のようなものが建てられるのであろうということは知っていた。そして、今朝になって初めて何か巨大なモニュメントのようなものが建っていることに気がついたのである。

そうした通行者の中にDパックを背負い、杖を手にした蟹股の老人がいた。鶴見太一である。彼は、さりげない様子で幔幕の方に近づくと、警官の一人に声をかけた。
「これはいったい、何の行事ですか」と、不思議そうな顔をしてみせる。
「有名な彫刻家の先生が作品を市に寄贈されまして、これからその除幕式が執り行われるんです」警官は、一点の不審も示さず、にこやかに太一に応えた。
「ほう、そういうことですか。そんなら、わしもちょっと見物をさせてもらうとしますかな」太一は、大きな声で警官にそういい残すと、上半身を左右に大きく揺すぶりながら後ろの大きな椎の木陰に下がっていった。
木陰には、白いベンチが背中合わせに二つ置かれている。先客が一人、席を占めていた。白い帽子を被り、片手に紺色の折りたたみ傘を持った太一と同年配の小柄な女性である。どうやら彼女の方は、正真正銘の見物人のようであった。太一は、その女性に軽く頭を下げると反対のベンチに腰を降ろした。風が枝を大きく揺さぶっており、椎の大木は喘ぐような音を立てていた。太一は、空を見上げた。セピア色をした空を背景に鉛色の雲の塊が重爆撃機の編隊のように西から東へと猛スピードで飛行している。しかし、雨の降る気配はなかった。
「都築先生の作品だそうですよ」
いきなり女性が背中合わせの太一に話しかけてきた。
「ああ、そうですか。それであなたは、その先生のファンでいらっしゃる、というわけですかな」太一は、杖を縮めるとそれに両手を休めながら応えた。ふとスパイ映画の一シーンが頭に思い浮かんだ。
「ええ。私は、都築先生の大ファンですの。あなたは、あの方の彫刻をご覧になったことがおありですか」
「いいえ、生憎一度もありません。しかし、これからしかと見せていただくつもりです」

主役の到着が遅れていた。これは丸木市議一流の演出であった。わざと遅刻することによって、この市の真の権力者が誰かを見せ付けているのである。実際、今回の式典には、彼の息のかかった地方新聞の記者とカメラマンしか現れてはいなかった。また、招待客のほとんどは丸木が選んだ者たちであった。
10時を5分ほど過ぎたころ、ようやく白のロールス、シルバーシャドーが姿をみせた。丸木市議と良也の乗る車だった。運転手がドアが開けて、紋付袴姿の丸木が現れると、警官が直立不動の姿勢で敬礼した。市議は、警官に片手を軽く上げて答礼する。反対側のドアからは、スーツ姿の良也が出てきた。その頭は半刈りで、見ようによっては、これからドラフトに臨む野球選手のようにも映った。
良也は、身体を翻し後部ドアを勢いよく閉めると幔幕の方にじっと目をやった。そして、その幔幕の上に高々と聳え立つ真っ白なベールに包まれた観音像に対し不敵な笑みを浮かべた。

太一の位置からは、幔幕の陰になり、良也達の姿は見えなかった。だが、幕の入り口に立っていた警官が一人、急いで道路のほうに歩き出したのを見て、その到着を察知した。
太一は、無意識のうちにベンチの隣に置いたDパックに手を伸ばしていた。その中には、酒の入ったフラスコが入っていた。酒と言っても、それはただの酒ではない、火の酒、ウォッカであった。酒を一滴も飲めない太一が酒屋でこんなものを買い、フラスコまで用意したのは、勿論復讐のためである。タバコも入院したときから止めていたが、今日は胸のポケットにラッキーストライクを入れ、そしてズボンのポケットには使い捨てのライターが入っている。太一は、そのライターを取り出すと着火を確認した。火は着いたがすぐに風に吹き飛ばされた。果たして、こんなことで奴を火達磨にすることなど出来るだろうか。太一は、一気に自信が揺らぐのを感じた。

丸木議員と良也が警官のエスコートを受けて会場に入っていった。盛大な拍手が風の音に混じって太一の耳にも届いた。太一は、その音に胸糞が悪くなるのを感じた。

「いよいよ、幕が降ろされますよ」老婦人の期待に満ちた声がすぐ耳元に聞こえた。
しかし、おそらくこれから市長を始め、都築、そして丸木のスピーチがあり、観音様のお姿を拝見できるのはもう少し後になりそうだ。