悲母観音像 8

2013/02/26 10:25


都築の話を聞いていくうちに、田辺は、コーヒーカップを持つ手がぶるぶると震えだすのを感じた。と同時に激しい眩暈に襲われた。彼は、都築にその内心の動揺を気取られないよう、そっとカップをテーブルの上に置くと額に手を当てた。そして、考える。これは果たして現実のことだろうか。こんなことが、果たして現実に起こり得ることなのだろうか。田辺は、この雇い主の正気を疑い、自身の正気さえ疑った。そして、この有名な彫刻家をこれほど現実離れした、夢のような話に巻き込もうとしている10歳の少年の魔力に背筋が凍りつくような思いがした。この少年は、もしかすると、その恐るべき魔力でこの俺をも操ろうとしているのだろうか。
遠く離れた病院のベッドで、その少年は、唯一自分の自由になる想像力を駆使し現実の世界に影響力を行使しようとしているのだ。田辺には、それが健気とも思える一方、非常に歪な、妖しい光を放つ物の怪の力のようにも思えた。だが自分は、たとえこれが悪魔の誘惑だとしても断ることなどできないだろう。

都築は、田辺が逡巡している様子を見て、契約金を5割増にしようと申し出た。
「君はただ、私が依頼した通りの仕事をしてくれればいい。すべての責任は私にある」
「分かりました」田辺は、すでに腹を決めていた。その顔は、重い雨雲が風に吹き飛ばされていったように晴れやかだった。彼も結局は大樹の持つ魔力に負けてしまったのだ。
都築は、田辺の顔をさりげなく観察しながら、ひょっとすると、この工学博士の肩書きを持つ男は、賃金の割り増しなど言わなくとも、その技術的興味から話に乗ったのではないかと思い、相変わらずの自分の経済的観念の乏しさに苦笑を浮かべた。

続いて時田も都築に呼ばれた。彼もまた、多少の変更を余儀なくされたが、それほど大きなものではなく、その理由もただ芸術上の観点からとだけ聞かされた。

都築には、もはや製作に関わっている時間的余裕はなかった。展覧会出品はとうに諦め、今は大樹の意思に従って、T市へ作品を寄贈する画策をしなければならなかった。大樹の計画では、丸木良也の父親である丸木久吉市会議員に働きかけることになっていた。
都築は、大樹の計画の中でもここのところが非常に引っかかっていた。なぜなら、この計画が成功した暁には、自分がこの計画の立案、実行を行った張本人であることが明らかになるのは間違いなかったからである。
「それに悲母観音像などを、果たしてあの男の父親がすんなりと受け入れてくれるだろうか」
だが、その懸念を電話で伝えると、大樹は自信ありそうにこう説明したのである。
「あの男の父親だからこそ、頼む価値があるのです。他の市会議員連中に頼んでも、丸木の報復が恐ろしくてとても聞いてはくれないでしょう。それに、この丸木という政治家にとっては、息子によって傷つけられた自分の名誉を回復する絶好のチャンスと映るはずです。おそらく、この男にとって、今回の話は棚からぼた餅のようなものです」
都築は、なるほどと思った。と同時に、この少年の洞察力に舌を巻いた。しかし、もう一つの懸念は依然残されたままだった。
「でも、事の真相が明らかになった場合には、私もただではすまないだろう」
「先生、そんな心配はご無用です。すべては天網恢恢という天の原理が作用して起こることになっているんですから」

「天網恢恢ねぇ。でも、権勢を誇るあの丸木の父親に、本当にそんなものが通用するのだろうか」
「ええ。きっと天罰が下ったと思うはずです」
「天罰か」都築はうなった。「しかし、そんなものが本当にあるのだろうか」
「先生。天罰を感じることができるのは人間だけです。人間がそれを天罰と感じるのは、自分の心の中に少しでも良心の呵責があるからです。これが無邪気な動物なら、たとえ子殺しをしても、あるいは自分の仲間や伴侶を殺しても罪の意識など感じるはずがありません」
都築には、まだ大樹の考えがしかとは分からなかった。しかし、この少年に確固とした信念があることだけは感じとれた。

作品の完成が間近に迫ったその日、都築はT市を訪ねた。まず市長に会い、それから、その紹介で丸木市議に会うことが叶った。
丸木の屋敷は、土塀を巡らした広大なものだった。その威容を目にしただけで一般の者は気圧されてしまうに違いなかった。

人間とは、何とばかな生き物か。と都築は、いつもの感慨を呼び起こす。人の世とは、すべてこのような、はったりとこけおどしで造られた虚構に過ぎない。なぜ、こんな嘘っぱちが幅を利かす世界になってしまったのか。いつの間に、小さな子供のような、無邪気に笑い、怒り、声を上げて泣く、喜怒哀楽に満ちた本物の世界が消えていってしまったのか。
都築は、それが自分が歳をとったせいだということに気が付いていた。人間の世界は、太古の昔から少しも変わってなどいない。変わったのは、単に自分の目の方なのだ。しかし彼は、一方にそれを決して認めたくない自分がいることも知っており、時々こうしてやるせない気持ちに陥ることがあった。

応接に通された都築は、その調和のなさと品の悪さに吐き気を覚えた。このような俗悪に汚された部屋は、芸術家が決して見てはならないものだった。それは、小学生が場末のストリップ小屋を見るようなものだ。
しかし、応接から見る庭だけは実に見事なものだった。一流の庭師が設計し手入れしているに違いなかった。明るい緑色の基調の中に、池の水の映す空の青があった。その大きな池には中ノ島があり、そこには小さな朱い太鼓橋が架かっていた。中ノ島の一部は大きな岩で構成されており、そこからは小さな滝が落ちている。
都築は、その中ノ島に苔のむした立派な灯篭が立っているのを見て、おやっという思いに捕らわれた。それは、おそらく、日中にもかかわらず灯明が点されていたからであろう。しかし、それだけではないような気もした。

都築が灯篭を見たまま、あれこれ考えを巡らせていると、落ち着いた絽の和服に身を包んだ40がらみの美しい女が茶を持って現れた。
「丸木の家内でございます」
座卓の端に正座して都築の前に静かに茶を置くと、女は丁寧にお辞儀をした。
「丸木は身支度に手間取っておりますので、どうぞ今しばらくお待ちください」
都築が女の美しさと丁寧な挨拶に一言も発せないでいるうちに、女はそそと立ち上がって部屋を出て行ってしまった。
「あれは良也の本当の母親だろうか」都築は、女の若さと少し哀愁を帯びた美しさに、決して良也の実母ではあるまいとの印象を強くした。

それからしばらくして、和服姿の丸木が現れ、座布団に正座して待つ都築に何か声をかけた。
「やぁ」というような、しわがれた意外に小さな声だった。そして、やはり意外なほど小柄な男だった。「お待たせして申し訳ない。どうぞ、膝を崩してください」
しかし、そう言いながら立派な卓を挟んで都築の前に胡坐をかいた顔を見ると、この男が数々の修羅場を潜り抜けてきたことだけは間違いなさそうだった。精悍な日焼けした左の頬から顎にかけて大きな切り傷があった。それは明らかに刃で負った傷だった。

都築は、自分のような一介の市井の人間に過ぎぬ男に対するこの男の余りに立派過ぎる態度に威圧感を抱いた。この男は、私に礼を尽くしているわけではない。これは、この男が自分自身のプライドのために自身に課している、ある種の流儀なのだろう。

「市長から大方のことはお聞きしております」一通り世間話をした後、丸木から口火を切った。
「しかし、都築さん。生憎わしは、あんたの彫刻については不勉強でよく知らんのですが、よもやあんたの方は、わしの不肖の倅が起こした事件について知らんわけではありますまい」
「実は、ご子息のことにつきましては最近知りました。いえ、正確に言うなら、あの事件の当事者があなたのご子息であることは、最近知りました」
「ほう」
丸木は、卓に置かれたシガーボックスからハバナを一本抜き取ると、カッターでその両端を切った。自由の女神を象った純金製の卓上ライターに火を着け、それを片手に持って葉巻に火を移す。
ようやく火がついたらしく、満足したように一服くゆらせた。
「すると、それを承知の上で、その悲母観音像とやらをこの市に寄贈しようと言われるわけですな」丸木の眼はまだ穏やかさを保っていたが、都築の応え方しだいでは、どうなるか分からない危険を帯びていた。
「私は、あの像は、あなたにお願いしてこの市に寄贈するのが一番だと考えたのです」
「ほうっ」丸木の眼に訝しげな陰が宿った。
「と言いますのは、私は常々子供の虐待には心を痛めていると申しますか、関心を持っておりまして、昨年のご子息による事件も、大変不幸な出来事であったと考えております。私は、あの事件の後、あなたがこの種の事件に非常な関心を持たれ、その対策に取り組んでおられると承知しております。それで私は、この度の作品は、ある展覧会出品のために製作していたものだったのですが、急遽、市に寄贈させてもらうのが作品のテーマから言っても最も相応しいのではないかと思うようになったのです」
「なるほど」丸木の眼から鋭さが消えた。「良く分かりました。それにしても、あなたには度胸がありますな。いやいや、これはお世辞でも皮肉でもない。わしは商売柄、人を見る眼には自信を持っております。つまり、人物の目利きが出来るということですな。そのわしが言うのだから間違いはない。あんたには確かに人並みはずれた度胸がある。わしは、芸術家などと言う商売を馬鹿にしておったが、芸術家にもちゃんとした男がおることを初めて知らされましたよ」
「いえ、私は単に世間知らずの男に過ぎません」
「いや、わしは、ほんとうにあんたが気に入った。今回の件は、喜んで寄贈をお受けいたします」丸木が頭を下げた。
都築は思わぬ展開に面食らった。まさか、このような男に頭を下げさせることになるなどとは、思いもよらなかった。罪悪感に背中がぞくっとした。