悲母観音像 10

2013/02/26 10:28


スピーチは随分と長く続いた。20分、いや、30分が経過していた。太一は、時計を見た。10時35分。そのとき、銅像に動きがあった。太一の位置からは、しかとは確認できなかったが、観音像の裾の辺りを縛っていたロープが解かれたようで、白く巨大な布が強風にスカートのように舞い上がるのが見えた。そして次の瞬間、その白い布が銅像の後方にするすると手繰り寄せられた。
大きなどよめきが起こった。太一も立ち上がって、その神々しい観音様の姿に言葉を失った。
「まぁ」という、老婦人の感にいった声が太一のすぐそばで聞こえた。「なんと厳かな観音様でしょう」
いつの間にか、彼女は太一の隣に立っていた。

観音像は、金色に輝いていた。しかし、何よりも太一を驚かせたのは、その高く前に差し出した右手と腰の辺りまで下げた左手の間に浮かんだ透明なキューブだった。
太一には、右と左の掌の間に見えない軸があって、キューブはその軸に貫かれているように見える。そして、その中には裸の幼子の姿があった。その幼子は、幼いキリストがマリア様を見るようにじっと観音様の顔を見上げているのである。
太一は、思わず心の中で孫の名を叫んでいた。

再び大きなどよめきが起きた。しかし、太一には、そのどよめきがいったい何によるものか分からなかった。
「いったい何が起こったのでしょう」隣の老婦人が太一に心配そうな声を投げかけた。
「さあ、わしにもさっぱり分かりません」
そう応えている間にも幔幕の中の動揺はいっそう酷くなり、波動となって太一たちの所にも押し寄せてくる。
そのうちに、太一にも事情が飲み込めてきた。眼を凝らしてよくみると、キューブの中の幼子がいつしか正面を向いて幔幕の中の誰かを指差していたのである。風の縫い目縫い目に、その幼子の声と思しき声が聞こえてきた。
「……殺したのは、……だ」と言う声がまず耳に入った。
太一は、心臓が激しく動悸を打つのを感じた。恐らく血圧も相当に上がっていることであろう。
太一は、幼子の像が立体映像であることに既に気がついていた。恐らくそれは、最新のレーザーテクノロジーを使ったホログラムというものであろう。しかし、そんなテクノロジーまで使って、いったい何故、都築とかいう彫刻家はこのようなことをやろうとしているのか。
太一は、遠目で良くは分からなかったが、立体映像の幼子が自分の孫の姿をしているに違いないと思った。そして、今その孫が多くの証人たちを前に丸木良也に復讐を遂げようとしているに違いないのである。

都築は、想定外の事態に酷く動揺していた。「これは、ひょっとすると古川大樹の最初からの企みであったのだろうか」
都築の頭には田辺の顔が浮かんでいた。もしもこれが大樹の最初からの企みであるなら、当然、あの少年は秘密裏に田辺ともコンタクトをとっていたことになる。その田辺は今、観音像の調整のため、台座の中に入っていた。

出席者たちは、混乱の極みにあった。丸木市議を目の前にして自分たちがいったいどのような態度をとってよいのかまったく分からなかったのである。都築は、丸木市議の激しい怒りを帯びた眼が自分を鋭く見つめているのに気がついていた。そして、それとは対照的に、良也の顔は蒼白である。いつもの、口の端に漂わせている青臭い居傲は跡形もなく粉砕されていた。
「あ、あんた」都築を指差して大声で叫んでいるのは市長だった。「早く、何とかしなさい。早く電源を切るなり、何とかしなさい」この男は、丸木の怒りを恐れて取り乱していた。丸木の怒りの矛先がいつ自分に向けられるかと恐々としているのである。
都築は、市長と丸木の眼を逃れるように台座の後ろに回った。台座の高さは2メートルあり、蓮の華の形をしている。その巨大な鉄筋コンクリート製の制御室の中で、田辺が観音様の制御を行っているはずである。都築は、潜り戸のように小さな鉄扉のレバーに手をかけた。内側からしっかりと施錠がされていた。
「田辺君」都築は、扉の前に屈んで大声で叫んだ。しかし、中からは何の反応もなかった。
都築は上着のポケットを探った。キーホルダーの中に一つ小さなディンプルキーがあった。それがこの扉の鍵だった。
「田辺君。扉を開けるぞ」都築は、大声で中に呼びかけながら、鍵穴に施された防水キャップを開いてキーを差し込もうとした。しかし、キーは中に入ろうとしない。いつの間にか錠が変えられていた。
「やられた」都築は腹の中で舌打ちした。こみ上げる怒りに拳で何度も扉を叩きつける。
しかし、ふと都築は、会場が不思議な静寂に包まれていることに気がついた。あれほど騒然としていた会場がいつの間にか水を打ったように静かなのだ。
そして、その静寂の中に厳かな観音の声が響いた。
「みなさん。この子の言ったことは、すべて真実です。なぜなら、この子は幼児期の丸木良也そのものだからです」
都築は、静寂の中で台座の後ろに屈んだまま幼子が喋ったことを反芻していた。それは、実に恐るべき話だった。ホログラムの幼子は、丸木議員が自分の実の母親を殺したと告げたのだ。都築は、そのときの父と子の驚愕の表情にショックを受けた。その表情自体が、観音の言っていることが真実だと証明していた。父と子は、互いに顔を見合わせることもなく、ただ二人、しばらくは呆然と最前列の椅子に腰を降ろしていた。

その父と子に追い討ちをかけるように頭上高くから観音の声が落ちてきた。
「丸木市議は、15年前、当時5歳だった良也の目の前でその母親を撲殺しました。しかし、息子の良也は、余りのショックにこの事実を固く心の奥に封印してしまったのです。今彼は、その事実を意識の表層に上らせているはずです。
さらにもう一つ、良也自身も知らない事実を皆さんにお知らせしましょう。彼、丸木良也は、丸木市議の実の息子ではありません。丸木議員は、若いときに受けたヘルニアの手術のために子供を作ることが出来ないのです。良也は、彼の舎弟であった幹部暴力団員と殺された彼の母親との不義の結果生まれた息子なのです。このことが丸木市議に知れた結果、二人とも殺されてしまったのです」
観音の声は静かでゆっくりとしたものだったが、その内容は計り知れないほどのインパクトを持っていた。しばらく静寂に包まれていた会場は、再び嵐の最中に突っ込んだ船のような、激しい動揺に襲われた。

「市長」
突然、丸木議員が両拳を強く握り締めて立ち上がると凄みのある声で吼えた。顔色は、
怒りのためか葡萄のようになっている。「わしは帰る。この始末は、必ずあんたにつけてもらう」
その言葉に小柄な市長は一瞬電気が走ったかのようにびくっとした。
丸木議員は、まだ椅子に座ったままの良也に初めて眼をやった。
「良也。なにを慄いておるのだ。あんなものは、みんな口からでまかせだ。さっさと帰り支度をせんか」丸木は、バシンと大きな音が聞こえるほど激しく良也の肩を叩いた。それから、今度は観音の顔をきっと睨み付けた。
「都築とやら。わしは、おまえにまんまと嵌められてしまったというわけだ。……しかし、おまえさんもこのままただで済むとは思わんことだな。わしを怒らせるとどういうことになるか、とくと思い知らせてやる」
しかし、丸木の捨て台詞に応えたのは、観音様だった。
「丸木。おまえこそ、大きな口を叩かぬことだ。もうすでに、警察は動きはじめている。お前の前妻が埋められた場所は、すでに掘り返されようとしている」
丸木がショックを受けたことは歴然としていた。観音の言葉に一瞬立ち止まったかのように見えた彼は無言で幔幕から外に出た。そして、肩を落とした良也がその後に続いた。

そのとき、鶴見太一は、幔幕の入り口近くに立っていた。観音の声は一部始終捉えることができた。彼は、手に持っていたフラスコを尻のポケットにゆっくりとしまった。そして、代わりに胸のポケットからラッキーストライクを取り出すと、一本つまんで口にくわえた。そうしているときに、何か焦燥感を漂わせて丸木議員が外に出てきた。そして、その後をうな垂れた様子の良也が付くように出てきた。
太一は、5メートルほど離れた位置でライターに火を付け両手で風を防ぐとタバコに火をつけた。最初の一吸いで頭がくらくらっとしたが、太一は、1年ぶりに吸うタバコのうまさに感激さえ覚えた。
太一は、観音像を見上げるとタバコを挟んだままの手をそっと合わせた。彼は、良也が外に出てきたらウォッカを浴びせかけライターで火をつけるつもりだったのだが、そんな恐ろしいことをやらずに済んだことに感謝したのだ。良也という悪餓鬼も、こうして事実を知ってみれば、大変可哀想な幼年期を過ごしてきたのだ。もちろん、だからと言って、その罪が軽くなるものではない。しかし、本当に悪いのはその義理の父親であったのだ。

翌朝の新聞は、丸木市議を巡るスキャンダルが一面を飾った。ニュース番組もこの事件で持ちきりだった。丸木市議は、殺人の容疑で逮捕された。警察の事情聴取により、丸木の後妻が一部始終を供述したのである。
それによると、彼女は事件当時、丸木家の家政婦だったらしい。しかし、すぐに丸木と関係ができて同じ屋根の下に妻妾が同居する異常な事態になった。二人の女の間には当然のごとく激しい争いが勃発した。
妾の立場の女は、保身のためにも丸木の子供が欲しかった。丸木も妻との間にもう一人子供を望んでいたのだが、どういうわけか第二子の誕生は叶わなかった。丸木は、不妊の原因が妻の方にあると思い込んでいたため、妾が自分の子供を産んでくれるなら、本妻の不興を買うことも気にはならなかった。しかし、案に反して妾との間にも一向に子供はできなかった。
丸木は、妾の薦めも合って、病院で診断を受けた。その結果、無精子症が判明したのである。
そして、あの事件が起きた。丸木は、妻を責めて良也が誰の子かを白状させた。そして、その父親が自分の信頼していた子分であったことが分かると、木刀で妻を滅多打ちにして殺してしまったのである。
その様子は、妾と良也の二人が目の当たりにしていた。妾は、火がついたように泣き叫ぶ良也を抱えて、雷でも避けるように別の間に逃げ込んだ。そして、良也に覆いかぶさると、自分自身も両手で耳を塞いで、阿鼻叫喚からじっと耐えた。
妻の遺体は、良也が子分たちに命じて、池の中ノ島に埋めさせた。大きな灯篭を立て、それを墓標の代わりとしたのは、妻に対するせめてもの供養のつもりであったのかも知れない。
さらに丸木は、良也の父親であった子分も自らの手で殺めると、手下を使ってコンクリート詰めにして海に沈めさせた。
妻は、失踪したとして警察に捜索願が届けられた。そして7年が過ぎると、丸木市議は妾にしていた家政婦と正式に婚姻した。