ドリアングレイの肖像画

2014/08/31 12:08


ドリアングレイの肖像画は、魅力あふれる作品である。わたしは、これをシンボリズムの傑作として捉えている。

ドリアングレイという主人公の名は、わたしの勝手な推測だがローエングリーンから来ている。オスカーワイルドは、きっとワーグナーが好きだったはずだ。

ワーグナー、そのパトロンであったルートビヒ2世、そしてオスカーワイルドは、耽美主義者であった。美こそが人生において求めるべきものであった。

ドリアングレイにおいても、美はさまざまな宝石や花や香りとなって、あるいは悪徳の数々となって作品のあちこちに鏤められている。

そしてなにより、ドリアングレイの肖像画こそがその美の象徴である。
しばらく世間から姿を隠していたバージル画伯が精魂込めて描いた美青年ドリアングレイの肖像画。それは、バージルの友人であるハリー卿にアドニスの姿や斯くあらん、と云わしめるほどのものであった。
一方で、その絵のモデルであり、絵の所有者ともなったドリアングレイは、ハリー卿の巧みなエスプリに感化され次第に悪徳に手を染めてゆくことになる。

変わらぬはずの肖像画。そして、人生の垢に染まり、シミや皺を増やし老いさらばえていく、はずの美青年。
しかし、この小説の中では、醜くなっていくのは生身のドリアングレイではなく肖像画の方なのである。

オスカーワイルドは、いったい何を描こうとしていたのだろうか。

内面と外見との相克。これには間違いない。
ドリアングレイの生身の姿は、寄る年波とは何ら関係なくアドニスのごとく美しい。恋人を自殺に至らしめようと、阿片をやろうと、殺人を犯そうと、その姿かたちにはなんらの変化をもたらさない。

醜く変貌していくのは肖像画の方なのである。ドリアングレイだけがその秘密を知っている。知っているからこそ、彼はその露見を恐れ、大きな自宅の決して開けられることのない部屋の一隅にその絵を押し込み、さらに分厚いドレープで覆い隠すのだ。

さて、オスカーワイルドが真に描きたかったのは本当に内面と外見との相克ということであったのだろうか。

それを知る手掛かりが、後で加筆されたと思われるプレフェースにある、とわたしは思う。

それを読むと、彼は、倫理や道徳、それに実用や教訓的なものを芸術とは無関係としていたことが分かる。芸術には、作者も関係なければ、これら世俗的なものも一切関係ない、と彼は述べている。

その冒頭彼は、芸術家とは美の創造者である、と述べている。とするなら、ドリアングレイの肖像画において、オスカーワイルドが描きたかったのは美そのもののはずである。

つまり、彼が真に描きたかったのは内面と外見の相克などといった、教訓的、あるいは倫理的な、いわゆる深読みを要するようなものではなく、もっと表面的なものであった可能性がある。
そして、この点において、彼は間違いなく成功を収めている。

それは、ハリー卿のウィットとエスプリに富んだ会話であり、また肖像画と生身の人間との相克というアイデアそのものである。

この作品に読者が感じるであろう魅力を、魅力そのものをオスカーワイルドは描きたかったのである。