科学技術、倫理、戦争

2014/09/05 21:52

殺人や自殺、あるいはそれをさらに発展?させて核開発や原発、それにクローン(ipsやES細胞技術なども)ということを追求していくと、どうしてもそこには避けられない倫理という壁が立ちはだかっている。

もしもこの壁が存在しなければ、その先には論理というただ真っ直ぐな道が伸びているだけである。

倫理とは直接関係のない話であるが、わたしは宗教と哲学は、科学技術とはどこか相容れない部分を持っているように感じている。
特にキリスト教などは、その誕生以来ずっと科学を眼の敵のように排斥し続けてきた。例を上げるまでもない。地動説にしても進化論にしてもそうであった。

一方哲学は、科学技術を排斥してきたというよりも、むしろその力を援用してきた。

相対性理論不確定性原理もあるいは数学における不完全性定理も哲学者たちの思考という名の畑に撒かれた種子となって、やがて芽をだし、花を咲かせ結実していった。

つまり哲学は、決して科学技術に先行するものではなかったのだ。
このことは、哲学がPhilosophyの訳語であることから考えてみても分かる。
そもそも哲学とは科学技術を包含するものであったのだ。
科学技術は、哲学そのものを深く掘り下げ広げるための掘削ドリルの役割を担っていたのだとも言えよう。

今述べたように、科学技術と哲学、宗教とは相いれない部分を持っている。その理由は明白である。哲学、宗教は人間が中心だが、純粋な科学技術は人間の存在を絶対視しないからである。

上をより具体的に言うなら、原子力を善悪の二項対立で考えようとするのは、人間の利益を前提にしているからである。
ところが、真に純粋な科学技術に善悪はない。あるのはただ、鋭い切っ先だけだ。ダイヤモンドのように硬く純粋な探究心だけがそこにはある。

話は飛躍するが、人類の歴史というのはどれほどの長さ、時間を持つものなのであろう。もちろん、人類は地上に突然現れたわけではない。その基礎には38億年にもおよぶ生物の歴史があるはずである。
とはいうものの、人類としての歴史はせいぜい数万年、長く見積もっても数十万年というところであろう。

今、そのわたしたち人類はいわゆる生物界の頂点に立っているわけだが、ここに至るまでに行われたこと、すなわち進化の過程で自然が行ったこととというのは、夥しいほどの殺戮であった。
人類は、いや人類だけではない、現に今地上に存在するありとあらゆる生物は、その殺戮から免れて生き延びてきたサバイバーである。
それを日頃意識することはないけれども、わたしたちのの過去には累々たる死骸が広がっているのである。

勿論、自然は、わたしたち人類を誕生させるために、そのような殺戮を行ってきたわけではない。
しかし、その果てしないほどの、そして壮大な試行錯誤の末に、偶然に人類が誕生したと考えることは決して間違いではない。

繰り返して言うが、そこにはなんらの慈悲もなかった。自然はただ淡々と殺戮というスクーリニングを行い、その時々の環境に最も適応した「強者」だけを残してきた。

さて、わたしたちは人間である。したがって、どうしても自分たち人間を中心にものごとを考えてしまう。 人間を中心にということは、これはもうほとんど倫理を中心に据えて 考えるということと同じである。

ところが、純粋な科学技術というのは論理の世界であるから、倫理の入りこむ余地などない。
わたしは常々、人間というのは、その脳の階層からみても、生理、心理、論理という構成になっていると考えている。それでは、倫理というものはいったいこの三層構造のどこに入り込むかと考えてみると、これは心理と論理の間しかない。

結論的なことを言うなら、SFのような話になるけれども、これまで自然が行ってきたことを近い将来必ずや人間が代行するようになるであろう、とわたしは考える。
いやすでに、ごく一部の初歩的な段階ではあるがこれに手を染めている。

神が存在するとして、果たしてその神がその倫理とやらをどのような理由でお作りになったのかは分からないが、 それは決して人間に固有のものとしてではなく、全生物にとって必須の論理としてお与えになったのではなかろうか、という気がする。

神は、生き物に倫理をお与えになった。しかし、その前にもう一つの根本的な原則をお与えになっている。
それは、生きること、生の限りを尽くすこと、という大原則である。
この大原則ゆえに、わたしたちは厳しい生存競争を生き抜かねばならなかった。そして、その生き抜いてきた証として今日の姿があるわけである。

唐突なようだが、新渡戸稲造の「武士道」を読んでいて触発されたことがある。

それは、わたしたちは戦争を倫理的に悪として捉えがちだが、たとえそれが悪であるとしても、以下のラスキンの言葉が示すように、戦争には平和が決して持ちえない美や真実がある、ということである。
そして、なにより忘れてならないと思うことは、わたしたちはその悪とされる戦争を、数えきれないほど多くの戦いを生き残ってきた、ということである。

ラスキンは最も温厚で平和愛好的な人物に数えられる。それでも彼は、奮闘する人生を崇拝し、熱烈に戦争を是認していた。その著『ワイルドオリーブの冠』のなかで彼は言う。「私が戦争はあらゆる芸術の礎であるというのは、戦争が人間のあらゆる高徳と能力の基礎であるということでもある。この発見は私にとってとても奇妙なことで、またとても恐ろしいことでもあったが、私はそれが決して否定できない事実であると思えた。・・・・・・要するに、すべての強大な国民は、自らのことばの真実性と思想の強さを戦争で学んだ。彼らは戦争に養われ、平和に荒らされ、戦争に教えられ、平和に欺かれ、戦争に鍛えられ、平和に裏切られた。一言で言えば、すべての偉大な国民は戦争によって生まれ、平和によって息を引き取ったのである」