倫理と論理

2013/08/06 07:57


横井さん、ありがとうございます。
先の文章で、わたしがもっとも述べたかったことを整理してみますと、殺人や自殺、あるいはそれらをさらに発展?させて核開発や原発、それにクローン(IPSやES細胞技術なども)ということを考えていきますと、そこにはどうしても避けられない問題として倫理が立ちはだかってきます。
もしも倫理などというものが存在しなければ、そこに残るのは論理というまっすぐな筋道だけのはずです。

話は飛躍しますが、わたしは宗教や哲学と科学技術にはまったく相容れない部分があるように感じています。
宗教で言いますと、特にキリスト教などは、科学技術と常にいがみ合ってきたという印象があります。例を上げるまでもありませんが、ダーウィニズムにしても地動説にしてもそうでした。
また哲学については、いがみ合うというよりもむしろ科学技術の力を援用してきた側面があるように思います。相対性理論不確定性原理もあるいは数学における不完全定理もSFと同様に哲学に利用されてきたようにわたしには思えます。つまり哲学は、決して科学技術に先行するものではなかったのです。
このことは、哲学がPhilosophyの訳語であることから考えてみても当然のことと思われます。かつては哲学そのものが科学技術を包含していたからです。言うならば、科学技術は哲学そのものを深く掘り下げ広げるための掘削ドリルの役割を担ってきたのです。
今述べましたように、わたしの考えでは、科学技術には、哲学や宗教とは相いれない部分が存在します。その理由は至って明白です。哲学、宗教は人間が中心だからです。ところが、純粋な科学、そして技術というものは、必ずしも人間の存在を不可欠とはしません。人間がいなくとも科学は存在するのです。
たとえば、原子力を善悪の二項対立で考えるのは、人間の利益を前提にしているからです。ところが、真に純粋な科学であれば、そこには善も悪もあるはずがなく、あるのはただ、鋭い切っ先だけです。ダイヤモンドのように硬く純粋な探究心だけがそこにはあるはずです。
話はさらに飛躍しますが、人類の歴史というのはどれほどの長さ、時間を持つものなのでしょう。もちろん、人類という種は地上に突然現れたわけではありません。その基礎はすでに38億年前に完成していた。しかし実際には、人類としての歴史はせいぜい数万年、長く見ても数十万年というところではないでしょうか。
今、その人類はいわゆる生物界の頂点に立っているわけですが、そこに至るまでに行われたこと、すなわち進化の過程で自然が行ったことというのは、夥しいほどの殺戮でした。人類は、いえ人類だけではありません、現在地上に存在するありとあらゆる生物は、その殺戮を逃れて生き延びてきたサバイバーであるということができます。
われわれの過去には累々たる死骸が、キリングフィールドが広がっているのです。
自然が行ってきたことというのは、決して人類を誕生させるためのものではありませんでした。しかしながら、自然はその果てしないほどの、そして壮大な試行錯誤の末に、偶然に人類を生み出しました。
何度も言いますが、そこにはなんらの慈悲もなかった。自然はただ淡々と殺戮という名のスクーリングを行い、その時々の環境に最も適応した「強者」だけを残してきたわけです。

さて、わたしたちは人間ですから、どうしても人間中心にものごとを考えざるを得ません。 人間を中心ということは、これはもうほとんど倫理を中心に据えて 考えるということと同じです。
ところが、純粋な科学技術というのは完全な論理の世界ですから、倫理など関係がないということになってしまいます。
わたしは、人間というのは、その脳の階層構造からみても、生理、心理、論理という構成になっていると常々思っています。そして倫理というものを考えてみますと、これはおそらく心理と論理の間に存在します。

結論的なことを言うなら、SFではありませんが、これまで自然が行ってきたことを近い将来必ずや人間が代行するようになる、とわたしは考えています。いえすでに行ってきていると言っても構わないでしょう。

わたしは、神の名を方便として使わせてもらうなら、それもまた神の思し召しによるものと考えます。
神は倫理をどのようにお考えなのかは分かりませんが、 それは人間に固有のものとしてではなく、生物にとって必須の論理としてお与えになっているような気がします。
ただ、人間の狭い倫理は往々にして神の真の意を汲みえてはいない。真の意と言ってみても、何が真の意であるかは結局は分かりはしないのですが、少なくとも人間の偏狭な倫理観によって科学技術の発展が妨げられるようなことがあってはならない、とわたしは考えます。
「なぜ二番ではなぜいけないんですか」に代表されるような科学音痴は到底容認することはできません。まただいぶ熱は冷めてきたとはいえ、今も首相官邸前で行われているような原発反対デモも、わたしには免疫の暴走のように思えて仕方がありません。

ところで、いまわたしは新渡戸稲造の「武士道」を読んでいまして、このトピとはまったく関係のないとも思われるこの本にもいろいろと触発されました。
たとえば、わたしたちは戦争を悪としてとらえがちですが、つぎのような見方も確かにあるな、と思うわけです。なんと言いましても、わたしたちは戦いに継ぐ戦いを生き残ってきた最終形の生き物なわけですから。

ラスキンは最も温厚で平和愛好的な人物に数えられる。それでも彼は、奮闘する人生を崇拝し、熱烈に戦争を是認していた。その著『ワイルドオリーブの冠』のなかで彼は言う。「私が戦争はあらゆる芸術の礎であるというのは、戦争が人間のあらゆる高徳と能力の基礎であるということでもある。この発見は私にとってとても奇妙なことで、またとても恐ろしいことでもあったが、私はそれが決して否定できない事実であると思えた。・・・・・・要するに、すべての強大な国民は、自らのことばの真実性と思想の強さを戦争で学んだ。彼らは戦争に養われ、平和に荒らされ、戦争に教えられ、平和に欺かれ、戦争に鍛えられ、平和に欺かれた。一言で言えば、すべての偉大な国民は戦争によって生まれ、平和によって息を引き取ったのである」

わたしは戦争を賛美するものではありませんが、それでもたとえ戦争といえども何かしらの重要な役割を持っている、という見方には賛同を唱えます。同様に、殺人や自殺やクローンや、その他の一般的には禍々しいと考えられているものについても、ときにはフラットな、ラジカルな捉え方も必要と思うのです。