Metaphysics

2015/07/06 09:50 

 

 

 

形而上学というのはMetaphysicsの訳語らしい。Physicsというのは物理学のことで、もともとはギリシア語の自然学のことであった

 

 

そうすると、形而上学というのは自然科学では解き明かすことができないもの、という意味であると解すことができる。

 

 

 

たとえば、神は存するかどうかという問題は誰にも解決することができない。この意味において、確かに宗教は形而上の問題を扱っていると考えることはできる。

 

 

 

しかし、どのような宗教であれ、その信者はその宗教の説く神の存在を絶対的に信じているのである。彼らの中では神は確かに存在するのである。とするなら、少なくとも彼ら信者にとって宗教は形而上の問題などではない。それは信心の問題ということになる。

 

 

 

一方、自然科学の方向から神の存在を問うことも可能であり、実際に多くの物理学者が直接的、間接的にこの問題に取り組んでいる。その結果、現在のところ大勢を占めているのが神の不在、つまり神が存在しなくともこの世は存在できる、という考え方である。かの車椅子の物理学者スティーブン・ホーキング博士もこのような考え方の持ち主である。

 

 

 

かつて、文明の曙光がようやく射しはじめたころの人類も、わたしたちと同じように「なぜ俺は生きているのだろう。どうせ死んでしまうのに、なんで生まれてきたのだろう」という生物にとって根源的、かつ深刻な問題に頭を悩ませた。一つには、文明の発展と共にそういうことを考えるだけの余裕が出来てきたのである。

 

 

 

そして、そのような疑問はいつしか二つの大きな奔流となって今もわたしたちの目前を流れているのである。

 

それが冒頭のPhysicsMetaphysicsというわけだ。

 

 

 

その奔流の一つPhysicsに焦点を絞るなら、いまそれは神の存在を否定するまでに巨大なものになろうとしている。

 

かつては宗教が神の配剤としてきたものをすべて科学によって説明できる、というのがその主張である。

 

火を例にとるなら、原始時代、人は暖をとったり、あるいは外敵から身を守ったり、さらには煮炊きをするために木や草を燃やすことを考え出した。

 

そしてこの原始的な火は石炭や石油の発見と共に強大なものへと発展し、今の火力発電所や車や飛行機へとつながっていった。

 

さらに、これら化石燃料の枯渇が懸念されるようになると次にはウランなど核燃料による原子力の火を利用するようになった。

 

そして今、核分裂反応による放射能の危険が叫ばれるようになると、次の手段として核融合反応による火の実現に取り組んでいる。

 

 

 

「配剤」とは言い得て妙な言葉である。火ひとつとっても、恰も神が人間のためにこれら「燃料」を用意していたかのように見えるからである。

 

火だけではない、空気も水も、さらには太陽と地球との距離も、月の存在も、その他あらゆることが「人間の存在」のために予め用意されていたように「見える」のである。

 

 

 

もちろん、これは錯覚である。なぜなら、わたしたちは存在するとは言っても、この長い長い宇宙の時間の中でほんの一瞬だけ存在するに過ぎず、また人間原理が説くように、無数にある宇宙の中で、たまたまわたしたちのような「なぜ自分は存在するのだろうか」という意識を持つ生き物が生まれたというに過ぎない、からである。

 

 

 

わたしが思うに、Physicsは常にもうひとつの奔流であるMetaphysicsを否定しようとしてきた。ガリレオダーウィンを持ち出すまでもなく、それが人間の持つもうひとつの本性であったからである。