奔訳 白牙12

2016/05/04 09:23


薪を火の上に積み重ねているときに、ふと彼は、かつて一度も感じたこともなかったわが身に対する感謝の念を覚えた。筋肉の細やかな動きを観て、精巧な指の機構に感心した。火灯りのもと、彼は指を一本づつゆっくり閉じたり開いたりし、あるいは一時にすべてを開き、次には素早く握ってみたりしてみた。爪の配置を観察し、指先で鋭く突いたり、逆に柔らかく突いてみたりして、神経が発する感覚を研究した。これは彼を虜にし、かくも美しく滑らかで精妙な動きをする肉体に俄かな愛着を覚えた。そうして彼は、舌なめずりしながら自分を取り囲む狼どもの輪にふと恐怖の目をやったとき、まるで強烈なブローでもくらったかのように、この素晴らしき肉体が、この生きた肉が、腹を空かせたあの獣たちにとってはただの食肉の塊に過ぎず、彼らの飢えた牙で裂かれ切り刻まれ、ちょうどヘラジカや兎がしばしば彼の食糧となったように、彼らの命を維持するための食糧になってしまうのだ、という現実感に襲われ寒気を覚えた。

彼は、悪夢から半ば目が醒めたように、微かな赤味を帯びた毛並みの雌狼が自分のすぐ目の前にいるのを認めた。その距離はわずか五、六メートルで、雪の上に腰を降ろしたまま、物欲しそうな眼でじっと彼を見つめているのである。二頭の犬は、彼の足もとで鳴いたり唸ったりしているが、雌狼は、犬にはなんらの関心も示してはいない。彼女が見ているのは彼であり、彼もまた何度も彼女を見返した。だが彼女の眼差しに脅やかしはない。彼女はただ、強烈な熱意のこもった目で彼を見ているだけなのだが、彼にはその熱意が強烈な飢餓によるものであることがよく分かっていた。彼は食糧に過ぎず、ただ彼を見ているだけで、彼女の消化器官は興奮を覚えるのだ。事実、その開いた口からは涎が垂れ、大いなる期待から彼女は舌なめずりをした。

背筋を冷たいものが走った。彼は慌てて焚火から燃えさしを掴むと彼女に向かって放り投げようとした。が、燃えさしに手を伸ばし、指がその火器を掴もうとしたとき、すでに彼女は安全な位置にまで跳び退さってしまっていた。このとき彼は、この雌狼が何度も人間から物を投げつけられる経験をしていることを悟った。
跳び退さるとき、彼女は唸り声を上げ白い牙のつけ根が見えるほど大きく口を開いたが、その顔から物欲しげな表情は消え失せ肉食獣の悪意に変わったのを見て彼は身震いした。

彼は手に持ったままの燃えさしに目をやったが、それを握っている指の巧妙な優美さに、でこぼこした木の表面に沿って実にうまく曲がって握りを合わせ、小指などは燃えて熱くなった部分から冷たい部分にひとりでに少し位置をずらせ火傷を避けていることに気がついた。と同時に、この繊細で優美な手が雌狼の白い牙によって噛み砕かれ切り裂かれる光景が浮かんだ。彼は、かつてないほどの危険に曝された今の今になるまで、わが身の一部をこれほど愛おしく思ったことはなかった。

一晩中、彼は燃えさしを手に飢えた群れと戦いつづけた。眠りこけそうになるたびに、二頭の犬が鳴き声を上げたり唸ったりするので眠ることはできない。朝が来て、陽の光が射しこんでも狼どもは去らなかった。男は彼らが去ってくれることを期待していたのだが徒労であった。狼たちは、彼と火を取り囲み傲岸にもその輪の中が自分たちの所有物であるという意思を示し、このために朝が来るとともに彼の勇気は萎んでしまった。