奔訳 白牙10

2016/04/24 19:53

第三章

飢餓の叫び

その日は幸先よく始まった。夜の間に一頭も犬を失わずにすんだので、彼らは心も軽く暗くて寒い静寂の中、橇を進めた。ビルは前夜自らが口にした不吉な予言を忘れてしまったかのようで、日中に犬たちが悪路で橇をひっくり返してしまった時でさえ場違いな冗談を言うほどであった。
なにしろ、橇はただ転覆しただけではなかった。上下が反対になったまま木の幹と大きな岩の間に挟まってしまったので、これを元に戻すには、犬たちからハーネスを外して縺れてしまった革紐を解いてやらねばならなかったのである。ハーネスを外してやって、二人が橇を引き出そうとしているときに、ふとヘンリーが目をやると、片耳がこそこそと場を離れようとしている。
「こら、片耳」と彼は叫ぶと立ち上がって犬の方に近づいて行った。
しかし片耳は、雪原の向こうに引き紐を引き摺ったまま走り去ってしまった。そしてそこ、彼らの残した行跡の向こうでは、あの雌狼が片耳を待ち構えていたのである。彼は彼女に近づいていったが、途中でにわかに不安になったのであろう、警戒感から歩みがゆっくり小股になり、そして不意に立ち止まってしまった。彼は用心深く、疑い深く、しかし情欲のこもった目で彼女を見つめる。雌狼は微笑んでいるかのようで、牙は覗かせているものの、それは示威と言うよりご機嫌を伺っているように見える。彼女は数歩、遊びを促すような素振りで彼の方に進んだが、すぐに立ち止まった。片耳も彼女に近寄ったが、警戒は緩めず、用心深く、尻尾も耳も立て頭も高くしたままである。
片耳が彼女の鼻を嗅ごうとしたが、彼女は意図的につれなく身を引いた。彼の各部が前進すれば、それとは全く逆に呼応して彼女の身体の各部は後退する。着実に彼女は、その魅力を発揮して片耳を人間の庇護から引き離そうとしているのであった。
それでも一度、彼の知性が微かな警告を発したのか、彼はひっくり返った橇や、同僚の犬たちや、彼の名を呼んでいる二人の男の方に頭を巡らして見た。
しかし、どのような想念が彼に去来したにせよ、それは雌狼が一歩近づいて須臾の間彼の鼻を嗅ぎ、そしてコケティッシュに身を引くという行為によって破られ、片耳は再び彼女に引き寄せられてしまった。

一方ビルの頭には、ライフルが思い浮かんでいた。しかしそれは、ひっくり返った橇の下になっている。ヘンリーの助けを受けて荷を持ち上げようやく取り出したが、片耳と雌狼との距離は余りに近く、彼らまでの距離は余りに離れすぎていた。危険で撃てなかったのである。
片耳は自らの犯したミスに気がついたが、時すでに遅しであった。二人の男たちが異変に気がついたとき、片耳はすでに彼らの方を目指しまっしぐらに駆け出していた。しかし、その動線と直交して、片耳の退却を阻止すべく十頭以上もの痩せた灰色の狼たちが雪を蹴立てて突進していた。それを合図に雌狼からは媚もお遊びのムードも消えていた。唸り声を上げて彼女は片耳に襲い掛かった。片耳は雌狼を肩で押しのけ、橇を目指して走り始めたのだが、襲い掛かる狼の群れにコースを変えざるを得ず、大きなカーブを描いた。さらに多くの狼が現れ追撃に加わった。雌狼は、片耳のすぐ後ろ、あと一跳びの距離を追っている。
「どこへ行くつもりだ」とヘンリーがビルの腕に手をかけて質した。
ビルはその手を払いのけた。「俺はもうがまんできねぇ」と彼は言う。「俺はもう一頭も犬を失いたくはねえ」
銃を手に彼は、橇の行跡のすぐ脇に続く樹々の下生えに飛び込んでいった。彼の思惑は明らかであった。片耳は橇の場所を中心に円を描いて走っているので、ビルは然るべきタイミングを計ってその円に向かって一発喰らわすつもりなのである。
明るい中、銃をぶっ放してやれば、狼どもに一泡吹かせ片耳を救ってやれる、というのが彼の目論みなのであった。

二つの線は急速にその地点に近づきつつあった。ヘンリーは、木と藪の隙間を通してその雪の地点に、狼の群れと片耳とビルが交錯しつつあるのが分かっていた。それは余りに速く、彼の予想を越えてはるかに早くその事態に至った。彼は、まず一発目が発射され、すぐ続けざまに二発放たれる音を聞いて、ビルの弾が尽きてしまったのを知った。そして、恐るべき唸り声と鳴き声。それが片耳の恐怖と痛みによる鳴き声であることをヘンリーは知っていたし、それに続く吠え声が獲物を仕留めた狼のものであることも分かっていた。それですべてがお終いだった。唸り声は止んだ。鳴き声も消えてなくなった。再び静寂が雪原を満たしていった。
彼は長らく橇の上に座っていた。何が起きたのか確かめる必要もなかった。彼には、それが目の前で起きたかのように明白だったのである。一度、彼は起きあがって橇の荷から急いで斧を取り出した。しかし、二頭の犬が這いつくばって彼の足もとで震えるのを目にすると何度か長きにわたり座り込んで考え込まざるを得なかった。
結局、力を振り絞るようにして立ち上がり、二頭の犬を橇につないだが、身体からは一切の弾力性がなくなってしまっていた。彼は、ロープを自分の肩に掛けると犬たちと共に橇を引き始めた。遠くまでは行けなかった。暗くなり始めるとすぐに彼は、薪の豊富な場所を見つけそこにキャンプを張ることにした。犬に食事を与え、続いて自分の晩飯を作って喰い、火のすぐ傍に寝床を拵えた。