無神論について

2016/01/16 16:56


神の存在を信じるか、それとも信じないか。それが無神論者かどうかを判別する試金石である。
でも、ここでちょっと待ったをかけよう。神の定義がなされてはいないではないか。神が恰も存在することを前提に判別がなされようとしているではないか。

真の無神論者なら、こう切り返すはずである。

「神?なんじゃ、それ」

神とは、本来的に定義のできぬものである。定義ができぬままに「神」と名前だけが与えられた。それが神である。

だから、おそらく神は人間の数だけ、いやそれ以上に存在するはずである。一神教もあれば多神教もあるから。
ここで、じゃぁ俺は無神論者だが、どうなるんだよ、という方。少なくともあなたの言う「無神論者」という言葉の中に神が含まれている以上、あなたの脳みそに「神」の文字が刻まれていることは間違いない。であるからには、やはりあなたの中にも神は存在しているのである。

では、赤ん坊はどうだろう。生まれたてのほかほかの赤ん坊にはまだ神は存在しないはずである。あるいは、神は人間だけのものではない、というのが今の大勢であろうから、そうすると犬や猫の頭の中も知りたくなってくるというものだ。
さて、赤ん坊や犬猫に神は存在するのだろうか。

このことは、最初にも述べたように、神がそもそも定義不能なものである以上、知るべくもない。知り得ない。つまり不可知のことである。もちろん、この三者には神の文字は存在しないであろう。GODであろうと同様である。
しかし、彼らが何か神秘的とでも言おうか、「神のようなもの」を感じるときがないだろうか、と聞かれたとき、そんなものあるはずがない、とは断定できないであろう。

もしも真の無神論者が存在するとすれば、それは間違いなく「神」という言葉を知らない上の三者のような存在、あるいは植物とか、バクテリアとか、さらにはその辺の石ころのような無生物ということになるのだろうが、これらのものに対して、あなたは無神論者ですか、と訊くわけにもいかないから、これらのものが無神論者であると断言することもできない。その辺の石ころが神を信じていない、という確証は決して得られないのである。

ただひとつ言えることは、われわれの存在は有であるということであり、有に対する言葉が無であるということである。
このことから何が導き出せるかというと、無というのは、有の極めて特殊な状態であり、有が無を知ることはあっても、無が有を知ることは決してできない、ということである。

したがって、神が存在しないと考えることは、極めて特殊な状態を想定しているだけのことかも知れない。神が存在しない、と考えるよりも、神は当たり前のように存在するのだが、われわれは、それを知ることが出来ないし、信仰などによって神と交流することも不可能であると考えるのが自然なのかもしれない。

上げ雲雀名乗り出で、蝸牛枝に這い、神天にしろしめす。

すべて、これでいいのではないか。