神道的精神

2014/06/08 09:46

このトピでの争点は、わたしの思想(というほどのものではありませんが)の根幹的な部分についてであって、枝葉ではないはずなので、その根幹の、わたしが至らないために誤解を招いている点について改めて述べたいと思います。

まず、わたしは中共西蔵の紛争について書きました。北京オリンピック前に宮崎哲也さんが書かれた週刊誌の記事が印象的だったからです。

この記事での宮崎さんの主旨は明瞭です。中共は、輪廻や転生を詐欺だの迷信だなどと言って憚らないが、西蔵仏教というのは、キリスト教のような一神教よりもむしろ科学的でさえある、と言っているのです。

わたし自身は無神論者ですが、これは宗教的な神や仏は信じない、という意味であって、神道的な、すべて森羅万象に神は宿る、というような考え方には共鳴します。
火や雷といった現象について、わたしたちは化学や物理学で説明しようとしますが、古代の人々はこれを神の業と考えた。化学も物理学も知らなかったからです。
現代に生きるわたしたちは、化学や物理を知っている、つもりでいます。でも、本当にそうでしょうか。時代の最先端を行く科学者たちでさえ、自分たちはまだ何も知らない、と感じているのではないでしょうか。所詮、わたしたちは知り得ることだけしか知り得ないのです。
古代の人は、火が酸化現象とは知らなかった。雷が放電現象とは知らなかった。しかし、そこに不可思議を見ていた。その不可思議を神のなせる業と考えた。
わたしたちは、酸化現象という言葉も放電という言葉も知ってはいます。しかし、それをさらにさらに突き詰めていくなら、そのような現象も結局は量子論や紐理論、M理論にまで至るのではないでしょうか。

わたしは、脳内で起きていることも、究極的には量子論やさらにその先にまで至るであろうと考えます。
(かつてアインシュタインは、この宇宙で最も不思議なことは脳が宇宙を理解するということだ、と述べましたが、わたしは、脳というのは何十億年という進化の中で、この宇宙のあらゆる精神を織り込んできたのだから、それはむしろ当然のことであろう、と考えています)

結局、わたしのここで述べたかったことというのは、精神というものを突き詰めていくなら、果ては量子やその先にまでいくであろうけれども、精神自体は、数学や、あるいは情報のようなものに帰するのではないか。
そうすると、神道でいう火の神様や雷の神様というのも、強ち原始的といってばかにはできない。少なくともそこには現代科学にも通用するエッセンスはある。

というようなことであったわけです。