言葉の多義性について

2014/06/19 18:01

「哲学者とオオカミ」の中でこれを見つけた。
「ライオンが言葉を喋れたとしても、わたしたちはそれを理解できないだろう」これ、ヴィトゲンシュタインである。

マーク・ローランズは、私にはブレニンの言葉が理解できる、としてこれに反論している。もちろん、これはジョークであって、哲学者である彼がヴィトゲンシュタインを誤解するはずがない。彼は敢えて曲げて解釈しているのである。

ある晩、ローランズはハングリーマン・ミールと呼ばれるグルタミン酸たっぷりの食事をしていた。ブレニンは、隙あらばそのおこぼれにあずかろうと、鷹のような目で見ている。そんなとき、電話が鳴った。ローランズは食事を残したまま、その場を離れた。
さて、電話を終えた彼がテーブルに戻ってみると、食べかけだった食事は跡形もなくなっており、ブレニンはと見ると、今しも右足を宙に浮かしたままフリーズしている。このとき、ローランズにはブレニンが「見つかっちゃった」と言うのが聞こえた、と書いているのだ。

わたしは、ある週刊誌に五木寛之がこれと同じようなことを書いていたのを思い出した。
ある日、五木氏が横断歩道を渡ろうとしていると、反対側に小型犬を連れた女性が立っている。小型犬は早く横断歩道を渡りたくてしようがない様子である。
さて、信号が青に変わった。小型犬は待ってましたとばかりに歩道を渡りはじめた。五木氏とすれ違う形になったわけだが、そのとき、その小型犬がひざカックンをやったのである。なにも躓くようなものはなかったはずなのに、彼はそのまま前につんのめってしまった。五木氏は、そのときのその犬のバツの悪そうな顔が忘れられない、と書いていた。

言語は人間特有のものである。オウムも言葉を喋るが、あれはふつう言語とは呼ばない。しかし、言語を持たなくとも、わたしたちはオオカミ語や犬語やオウム語を理解できる、と考える。つまり、オオカミであろうと犬であろうと、その基本的な感情は人間と同じであろうと、類推するからである。

総入れ歯、わたしなども五つくらいは言語を操れる。わたしは何を隠そうポリグリップ(ポリグリットだったか)なのである。英語の他にウグイス語、犬語、猫語が理解できる。

ところで、人語についてだが、どこの国の言葉であろうと、シンプルな単語ほど、その意味の範囲は広い。人は一語でヒとトの二シラブルである。Manも一語である。神も一語、Godもその反対のDogも同じである。

これがたとえば唯一神とか八百萬神となると、その意味は少し限定される。と同時に混乱も生ずる。唯一神側にしてみれば俺の他に八百萬-1も神がいるのか、となり、八百萬の神々からすれば、唯一の神とはいったいどの神のことだ、となってもめるであろう。

いや、そんなくだらない冗談はやめにしよう。神をめぐる有神論と無神論についての話だが、これはきわめて単純な神が存在するか否かを問う議論のようでいて、そう容易いものでもない。神という言葉が多義性を持つからである。

たとえば、アインシュタインは「神はサイコロ遊びをしない・・・」と言った。いったい、神が博打などするのか、と考えるような人は論外である。アインシュタインのような物理学者のいう神とはなんであろう、との疑問を持たれる方のみこれから先を読んでいただきたい。

アインシュタインユダヤ人であったから、おそらくユダヤ教の信者であったと思われる。しかし、彼が足繁くシナゴーグに通っていたとは寡聞にしてわたしは知らない。それどころか、彼は神など信じてはいなかったのではあるまいか、という感想をもっている。

もちろん、わたしがここでいう「神など」というのは、宗教的な神のことである。宗教的な神というのは、人間の救済のための神である。
これに対し、アインシュタインのいう神は、おそらくわたしなどと同じで利便的な神、使うのにとても便利な神のことであろう、と考える。いわばコンビニエンスゴッドである。

だから、たとえば無神論者という言葉も、この言葉のみをもって誤解してはならない。無神論者であっても神という言葉は使う。ただ、「おお、神様お助けください」などという自分にとってのみ都合の良い神の存在は信じないということであったりする。

そもそも、無神論者というのは、宗教が、教会が生んだものであると思う。堕落した宗教家を侮蔑し、小うるさい宗教的な束縛からの自由を求める者たちの中から無神論者は生まれた。

だから、もともと宗教的な束縛などなかった、いやなくはなかったであろうが、極めて緩やかだった我が国からは無神論者は生まれなかった。八百萬も存します神の一つ一つを否定することなど、面倒でできなかったからであろうと思う。