ダメ恋とゲス不倫

2016/02/28 08:55

ジャックロンドンの「荒野の呼び声」、それに「白牙」を読むと、獣と呼ばれる犬や狼がなんと愛情の深い生き物であろうか、という思いに打たれる。

前者では、クロンダイクで金が発見された為に、空前の犬ブームが起こり、セントバーナードとシェパードの血を引くバックという大きな犬が犬さらいの手によって太陽の光溢れるカリフォルニアから棍棒と牙の掟に支配された極寒の地へと文字通り売り飛ばされることから物語が始まる。

様々な苦難の末に、バックは遂にジョンソーントンという理想の主人に巡り合うことができる。しかし、そのジョンソーントンも二人の友とバックや他の犬たちを連れた冒険の末に大量の金を発見するのであるが、その喜びもつかの間イーハット族という先住民たちによって殺されてしまうのである。

バックのソーントンへの愛は余りに強く深く、そのために彼はイーハットたちを襲い復讐を果たす。

わたしが大いに胸を打たれるのは、ソーントンの死によってバックの心に空洞が生じてしまうというところである。たかが小説に、という勿れ。ロンドンの犬や狼に対する洞察力は、彼自身がクロンダイクへ金探しに行った、その実体験に基づいている。

さて、この空洞について、空腹に似ていたが、決して食い物では満たすことができない、とロンドンは書いている。
わたしはこの行を読んで、わたし自身も幼稚園児の砌から数多のおみなごを好きになって、大抵は振られて、いや振られる以前の経験を多数熟してきたので、ああ、これは、バックのソーントンに対する愛情は、わたしたち人間の恋愛感情とまったく同じものなのだなぁ、とつくづく感じいってしまうのである。

「白牙」においても、狼の血を75%、犬の血を25%引く白牙は、インディアンのグレイビーバー、そして心身ともに醜悪な白人ビューティスミスの手へと渡り、その醜いビューティスミスの元では様々な犬や山猫などと生死を賭けた戦いの日々を送るはめになる。
そして、そんなある日のこと、チェロキーという名のブルドックとの戦いで首に食いつかれ、危うく命を落とすところをウィードンスコットに救われる。スコットは、白牙にとって命の恩人であるばかりか、バックにとってのソーントンと同様、理想の主人であった。そしてまた、白牙もスコットに対して、実に奇妙な表現ではあるが「恋」に陥るのである。

ある日、スコットがカリフォルニアのサンタクララバレイの実家に所用で帰ってしまう。すると白牙は、すっかり落ち込んでしまって、何も喉を通らない。
周りの犬たちがこのときとばかりに彼を苛めにかかるが、白牙はそれに反撃しようとさえしない。彼の面倒を見ていたドッグマッシャー(橇犬使い)のマックスが堪りかねてスコットにおまえさんの狼が死にそうだと手紙を書く。
それでようやくスコットが北の地へ戻ってくるのだが、その姿を見ても白牙は、犬のような大仰な感情表現をしない。微かに尾を振ってみせるだけである。しかし、その眼は決してスコットから離さない。どうだろう、わたしには、この辺が実に堪らないのだ。古来より日本人の尊ぶ忍ぶ恋とはこのようなものではないだろうか。

スコットに対する白牙の思い、あるいはソーントンに対するバックの思いは、いわば異種間における恋愛の感情である。しかも同性ときている。
わたしは、何十年も前に「恋する(なんとか)」というイルカのSFを読んだことがある。これはイルカが人間の女性に恋する話であったが、このときもなんだか奇妙な感覚に襲われたものだ。それが、今頃になってようやく作者の意図するところが分かったような気がする。

同性どうしであろうと、異種間であろうと、愛は当然に存在するのである。犬や狼の人間に対する愛を不純と思う者はいないであろう。それなら、である。男どうし、あるいは女どうしの愛を不純と感ずる感覚はおかしいのではないか。それは偏に無知から、無知とほとんど同義の狭量さから来ているに違いない。

さて、ずいぶんと前置きが長くなってしまった。わたしは初め、このごろずいぶん熱心なファンになってしまった「ダメ恋」と近頃ずいぶんとトレンドになってしまったゲス不倫についての考察を試みるつもりであった。

ある有名人が「不倫は文化である」と宣ったが、これは実に言い得て妙である。
しかしながら、不倫と同時進行で育児休暇を取ろうとしたかの国会議員の下種ぶりは、カラ出張で数百万もの政務調査費をせしめて裁判を起こされている兵庫県議会議員の下種ぶり以上ではないか。
美しい不倫というものが世にあるのかどうか知らないが、少なくとも、愛そのものは決して醜いものではない。不倫を醜いものにしているのは、それが不倫だからではなくて、その当事者の下種さにある。
不倫というものは、ある意味たしかに文化であり、どうしようもない人間の感情、あるいは生理によって引き起こされる脱線である。何事も規矩正しく生きれれば、人生それに越したことはない。しかし、そうはいかないのが人間、いや生き物というものだ。

一方、わたしが「ダメ恋」を好きなのは、そこに小学生のような大人の恋が描かれているからである。これは、実はテレビが視聴率を稼ぐための非常に洗練された戦術なのかも知れない。なぜなら、星の王子様ではないが、大人には必ず忘れかけている子供だった頃の、純真さが残っているものだからである。

冒頭にも述べたが、わたしはませたガキンチョだった。幼稚園児の頃から頻りに恋をした。しかし、恐らくそれには潜在的に性的な欲求が隠されていたのであろうが、少なくとも表面的には清純な、わたしの好きな言葉を使うなら、Celestial(天上的な)なものだった。清浄でかつロマンティックなものだったのである。

「ダメ恋」をわたしが好きな理由ははっきりしている。何か大きな火を心の中に秘めていながら、決してそれが性には直結しない、その辺りがいいのである。これこそが「忍ぶ恋」の境地であり、これこそが優れた芸術や学術を生み出す、恋愛をただ恋愛に止めずに、さらに高度なものへと昇華させる原動力となるものである。

恋愛は、子孫繁栄の原動力である。しかし、子供が作れなくとも、子供が作れない年齢になっても、なお恋愛には力がある。それは、何も芸術や哲学のような高尚なものを創造せぬとも、人生を豊かで幸福にする火力を秘めているのである。