奔訳 白牙43

2017/05/02 00:06

 

火を起こすもの

灰色の仔は、いきなりそこにやってきた。彼の落ち度であった。彼は不注意だったのである。彼は、水を飲もうと洞窟を出て川までやってきたのである。睡眠不足のためか頭が重かった(夜通し狩りに出ていて、今起きたばかりだったのである)。それと、不注意だったのは、その川が慣れ親しんだものだったからかも知れない。ここには何度となく訪れていたが、これまでそのようなことは一度もなかったのである。

彼は松の木を通り過ぎ、開けたところを渡って林の木々の中を小走りに進んだ。そのとき、眼で見ると同時に臭いでも気がついた。彼の前に、静かにしゃがみこんでいる五つの生き物は彼がこれまで一度も目にしたことの無い類のものであった。それは初めて見る人間の姿だったのである。しかし、彼を見ても、彼らは腰を上げようともせず、歯も見せなければ唸りもしなかった。彼らは身動きもせず静かにそして不気味にそこにじっとしているだけであった。

灰色の仔も身動きしなかった。彼の本能は急いで逃げるように告げているのだが、一方彼の中には突如として本能に抗おうとするものが湧き起こったのである。大きな畏敬の念が彼の中に生まれつつあった。彼は、自身の小ささや非力さに打ちのめされ動けずにいたのである。今目にしているのは、彼の想像を超える力と支配であった。間を怖れよと本能が告げていた。微かに、人間とは野生の生き物の中で最も優れた生き物であると感じていた。それは彼独りの目を通してではなく、彼の祖先たちすべての目が彼の目となって人間を見ているのであって、その目というのは、数え切れぬほどの冬の暗闇に隠れ、遠くから、あるいは藪の深みから、円く取り囲むように、奇妙な二本足で立つ、そして全ての生き物を統べるものを見る目であった。その呪文、すなわち何世紀、何十世紀に及ぶ闘いと蓄えられた経験は、恐怖と畏敬の形となって彼の中にもしっかりと伝えられていた。その遺産としての呪文は、幼いお狼の仔には効きすぎた。もしも彼が十分に成長していれば、真っしぐらに逃げ出したであろう。しかし案の定、彼は恐怖に腰が抜けたようになって、彼の祖先が初めて人間と共に焚き火の前に腰を降ろし暖をとることを知ったときのように、半ば屈服してしまっていたのである。

一人のインディアンが立ち上がって彼の傍までやって来ると彼を見下ろす位置で立ち止まった。狼の仔は縮み上がって地面に伏せた。それは経験したことのない、生の血の流れる肉が、折れ曲がって最後には何かが投げ出されるようにしてさっと彼を掴もうとしたのである。彼の毛は知らぬうちに逆立ち、唇は後ろに引かれ小さな牙が剥き出しになった。彼を掴もうとした手はそのために躊躇し、彼の上でドームのようになって止まり、その男は笑いながら言葉を発した。「ワバム ワビスカ イップ ピット ター」(見ろよ、白い牙を剥き出しやがった)。

他のインディアンたちも大きな声をあげて笑い 、それでその男は狼の仔を拾い上げる決心をした。その手が下されるにつれ、闘争の本能がだんだんと沸き起こってきた。彼は二つの大きな衝動に突き動かされていたが、それは屈服するかそれとも闘うかであった。彼のとったのはその折衷案であった。彼は両方を一度にやろうとしたのである。彼は手が彼に触れる寸前まではじっと大人しくしていた。しかし一度手が彼に触れた瞬間、彼は稲妻のようにその手に噛み付いた。次の瞬間、彼は頭の片側を掌で殴られ横に転がされてしまった。もはや闘う気は消え失せてしまっていた。幼さと服従の本能がそれに取って代わった。彼は坐り直すと声を上げて泣いた。しかし、手を噛まれた男の怒りは収まっていなかった。狼の仔は反対側の頭を殴られ、今度はその方に転がった。その場に坐り直すと、彼は一層大きな声を上げて泣き始めた。

四人のインディアンたちはこれまで以上に大きな声で笑い出したので、殴った男もつられて一生に笑い出した。彼らは皆で狼の仔を囲んで笑い続けた、一方灰色の仔はその間も痛さと恐怖から悲しげに泣き続けた。そんな最中のことであったが、狼の仔は何かを耳にした。