自由意志

わたしはこの世に一回だけの短い存在である。たとえば、100個のまったく無意味な数字の羅列を書いてみよう。それはわたしだけが書いた数字である。過去にも未来にもこのような数字の羅列を書いたものはいなかった。

百桁の数字の羅列はわたしの自由意志によるものだったのだろうか?

わたしはそうは思わない。数字を100個書こうと思い立ったことも実際に100個無意味な数字を書き並べたことも自由意志によるものなどではない。

空を行く雲を見ればよい。雲に意思と呼ばれるようなものがあるだろうか?

意思のない雲はしかし、今地球の歴史の中でたった一度しか現れなかった形と色をわたしに見せている。これとわたしが羅列した100個の数字は同じことではないだろうか?

わたしは現れ、一見わたしであることを変えないで五十年、七十年と続いてきているように見える。しかし、今日のわたしは昨日のわたしとはまったく違っている。わたしは食べ、水を飲み、息をし、排泄する。わたしの体内では消化が行われ、消化のために何百億もの腸内細菌が働き、グリコーゲンやアミノ酸になって血中を巡る。これらを使って古くなった細胞は新しいものに置き換えられ、死んで分解される。したがって、昨日のわたしどころか1秒前のわたしと今のわたしを比べてみても違っているのである。

雲にしても同じこと。やがて千切れて消えていくか、雨を降らせて消えていくかであろうが、それまでには千変万化に形も色も変えていく。

わたしたちは、わたしたちの脳が考えたこと、やらせたことを意思と言っているだけなのだ。わたしたちの身体は雲のように千変万化している。脳内で起きていることとて空行く雲と同じこと。所詮は自然現象なのだ。

庭で鶏が今、目の前のミミズかダンゴムシのどちらかを突こうとしている。さてこの鶏の小さな脳はどちらを選択するであろうか?

今、上空では雷が音を立て始め、時々稲光が閃き始めた。さて今雷雲がはちきれんほどに電気を蓄え、放電間際になった。さてこの雷は避雷針に落ちるであろうか、それとも庭に立つ大きな松の木に落ちるであろうか。

もしも鶏の頭に去来したダンゴムシより先にミミズを食ってやろうというのが彼女の自由意志によるというのであれば、雷が避雷針を避けて松の木に落ちたことも自由意志によるものと言わねばならないであろう。

わたしたちに自由意志などない。そういうものがあるように思いたいだけなのだ。