数学の0、物理の0、そして空

2015/07/30 15:24 

 

宇宙物理学の世界ではマルチユニバースの概念が一般化しつつある。マルチユニバースとは、わたしたちの住む宇宙だけではなく、無限の空間にわたしたちの宇宙と同じような宇宙が際限なく生成消滅しているという考え方である。

 

宇宙はビッグバン後のごく短時間にインフレーションを起こし、それから150億年もの時間をかけて現在の姿になった。150億年とは途方もなく長い時間であるが、これを人間の寿命と比較してはいけない。マルチユニバースの考え方によれば、150億年にしてみても一瞬と何ら変わりはないのである。なぜなら、あたかも邯鄲の夢枕で豆を茹でていた青年のように、いやその鍋の中の泡のように、無数の宇宙が絶えず生成消滅を繰り返しているからである。 

 

アインシュタイン一般相対性理論を発表したときに宇宙項を付けてしまった。このときアインシュタインは、「宇宙を膨張させない」ためにこれを付けたのであるが、後に宇宙の膨張が疑いのない事実であると分かると「生涯で最大の失敗であった」と嘆いた。しかし、実はこの宇宙項は、今ではなくてはならぬものとなっている。なぜなら、この宇宙には斥力が働いていることが分かったからである。宇宙全体の質量の内、これまでに知られていた物質の総和だけでは、宇宙がこれほど速く膨張しないことが分かった。 

 

その斥力の原因として挙げられているのがダークマターダークエネルギーである。しかし、その名の通り、両者ともにその実体については未だ明らかになっていない。ただ、宇宙の初期に起こるインフレーションとダークエネルギーとには大きな関係があるとされており、またダークエネルギーは「エーテル」のように宇宙を満たしているという考え方もある。 

 

すると、この新しい「エーテル」は、マルチユニバースを浮かべる無限の空間の基本的性質かも知れず、そもそもわたしたちが考えている無、ないし真空というものが「ない」ということかも知れないのである。 

 

こんなふうに想像を巡らしてみると、「エーテル」はわたしたちの宇宙をも満たしながら、それを実体として捉えられないほどに、この宇宙を構成する原子や量子と関係を生じない性質のものであることが分かる。なぜなら、未だにそれは何らかの方法によっても明らかになっていないからである。 

 

ところで、0とは数学的には無を意味する。しかし、上に述べたように物理学の世界の0は必ずしも無ではない。その0から絶えず宇宙が誕生しては消滅しているからである。 

 

そして、仏教のいう空もまた無ではない。空から色が生まれ、色はまた空に戻るからである。

 

人間界に限って言っても、人が生まれることにより宇宙は色を持つのであり、人が死ねば宇宙から色は失われる。色を生じさせるのは八識によるとされるが、これは物理学の不確定性原理と非常によく合致する。 

 

不確定性原理とは、量子などを扱うミクロの世界では観測という行為自体が量子の運動量や位置に影響を与えてしまうので、何れか一方の量を決定してしまうと他方がある程度の確率で不確定になってしまうという物理学上の基本原理である。 

 

これがなぜ仏教思想と合致していると思うのか?  

 

観測という行為は、これは極めて人間的なものである。なぜなら観測は八識によって行われるからである。八識がなければ物を見ることも聞くことも臭いを嗅ぐことも出来ない。しかし、このような行為自体が観測される対象物の挙動にも影響を与えてしまうのである。つまり、人と宇宙とはまったく一体のものなのであり、人が存在し観測することによって宇宙には色が生じるが、その色というのは人の観測という行為によって生じたものであり、いわば虹のようなものなのである。しかし、宇宙の本質である「水」は本質的に無色透明な空なのであり、決して人の目には捉えられない、ということだからである。