哲学につける薬X(犬と歩けば)

2016/09/19 18:06

馬鹿と恋の病と哲学者にはつける薬がない。けだし名言だと思う。もっともこれを言ったのはわたしが初めだと思うが。

ところで、犬には犬の世界がある。当たり前のことだ。ただ、その世界観は、わたしたちのそれとは著しく違っている、であろう。などともっともらしく言うのは、わたしが犬ではなくて犬の世界観を知らないからである。

今、世界「観」と言ったが、犬は主に臭覚によって世界を「嗅い」でおり、少なくともわたしは、「見て」いるので、仮に仲良く同居していたとしても、住んでいる「世界」は違っているはずである。

同様に、鴉には鴉の「世界」がある。鳥類は一般的に視覚に負っており、その視覚もわたしたちの視覚などよりも格段に優れたものである、らしい。わたしには鴉の雌雄などまったく区別がつかないが、彼らには一目瞭然のことなのだそうだ。雄と雌では羽の色が全く違うのである。

仮にあなたが家で鸚鵡を飼っているとしよう。そのピーコと名付けたあなたの同居者は、実は雄の鸚鵡であったなどということも大いにあり得るのである。しかも、あなたが今日のデートのために決め込んだ、とってもオシャレと思っている服装を、なんちゅうダサい色なんや、ケッ、ホントにセンスのないやっちゃなー、と首を傾げながら見ているかも知れない。

さて、この辺で本題に入ろう。といっても大したことではない。
「世界」についてである。犬や鳥とわたしの住む「世界」は、先に述べたように大きく違っている。同じものを見ているようでも、犬にはそれがたまらないほど香しく思われ、鸚鵡には残酷に、そして「わたし」の頭には消えていった数枚の千円札が浮かんでいるかも知れない。

人間同士でもこのようなことは当然に起こり得る。と言うよりも、世界観などと大仰な表現をしなくとも、ものごとのとらえ方、感じ方は人間の数だけあるはずだ。

では、このように多種多様、無限といっても良さそうな数の世界を一括りに「世界」と言っていいだろうか、という問題である。
「いいんです」と、カビラ何とかなら言うだろうか。いや実際、いいんです、とわたしなら即座に答えるであろう。

なぜなら、「世界」とは全てを包含したものだからである。ありとあらゆる色、臭い、音、その他わたしたちには検知することのできない、わたしたちが存在だとか現象だとか認識だとか縁だとかその他いろんな呼びかたをしている森羅万象の全てが「世界」だからである。

「世界」は「わたし」を包含する。世界の小さな小さな一部分たる「わたし」は「世界」を認識する。ただし、限定的に。それが出来るのは、「わたし」が「世界」の一部だからであり、その内部構造が「世界」の構造と全く同じに作られているからに他ならない。

このことは、マルチバースを考えてみればすぐに分かる。わたしたちが無数にあるマルチバースの中のある一つに生きている、というのがマルチバースの考え方で、言わば宇宙版ダーウィ二ズムである。これにより人間原理も生まれた。

仮にわたしがこの宇宙Uから別の宇宙Aに行ったとする。これは、わたしが犬に生まれ変わった以上? に世界観の変わる出来事であろう。というよりも、AとUとでは、その支配する法則が全く異なっている(たとえば、円周率がほぼ3だったり4だったりする)世界なので、存在することさえできないのだ。

つまり、「わたし」がこの世界Uに存在し自身の存在を確として信じられるのは、「わたし」がこの宇宙Uの、この「世界」の住人でありこの「世界」の構造の一部だからなのである。

おそらく、ハイデッガーの頭の芯にあったのもこのことである。彼の言う世界内存在とは、このような、人間の当然の在りようをもとに考察されたものなのであろう、とわたしは推察する(わたしはいわゆる哲学書を読まないので)。

井の中の蛙ではないが、この系(世界)の中にいて系を変えることはできない。せいぜいできることといえば、系の仕組みを知ることくらいでしかない。ただ、その仕組みを知ることすら、実は容易なことではない。その仕組みの一つであるフェルマーの最終定理を解くのに人生を棒に振ってしまった数学者がどれだけいることか。

ただ、この系の住人である限り、この系の仕組みを知りたくなるのは自然の欲求であろう。この系の仕組みイコール「わたし」の仕組みでもあるからである。

しかし、先に述べたように、系の中にいる限り系を変えることはできないし、その仕組みさえ知ることができない場合もある。なぜなら、水の中の魚の如く、水の存在をわたしたちは見れないでいるからである。

ただ、わたしたちは不可知を追ってはいけない。不可知とは、この系の住人たるわたしたちには絶対知りようのないもののことである。しかも、この不可知は万物が本質的に持つ性質であり、究極的なものである。

この系には不可知もあれば、不可知以前の、その存在?すら知ることのできないことさえあるはずで、こうなるともう問題提起さえ不可能である。
だから、わたしたちは、それが不可知であることまで分かればそれで良しとしなければならない。それ以上の探求は、未だ開発されない薬の必要な哲学者や哲学を騙る者たちに任せておけばよいのだ。