「ある」と「ない」

2016/08/22 11:09


TED-TALKSで、Harry Cliff 氏の「物理学は終焉に達したのか」を面白く視聴した。

「物理学の終焉」は、二通りに考えられる。一つは人類の英知が物理のすべてを極めてしまって、もはや探究するにたる未知がなくなってしまったということ。もう一つは、未知というものにはどうしても極めることができないいわゆる不可知の領域があって、ついに人類はそこにまで踏み込んでしまった、ということである。

もちろん、ハリー氏のいう「終焉」は後者である。この宇宙を探求していけば、そこには必ず、なぜ「ない」ではなくて「ある」なのか、という疑問が生じてしまう。なぜこの宇宙は存在しなければならなかったのか、という根源的な問いである。

ところで、なぜ「ある」であって「ない」ではないか、などと考えるのは人間である。
そもそも、人間が存在すればこそ、いや「わたし」が存在すればこそ、このような疑問が生じるわけである。「わたし」が存在しなければ、宇宙が「ある」という認識は生じない。ここはとても重要な点で、人間原理にも関わってくる部分である。

ただ、わたしが存在しなくとも他の「わたし」がこの地上に存在する以上、この宇宙は「ある」はずだし、仮に全人類が存在しなくなったとしても、やはり「ある」ことに変わりはないはずである。
しかし、この宇宙がなければ、「わたし」は存在しないわけで、結局この宇宙があるから「わたし」は存在し、「わたし」が存在するからこそこの宇宙の存在が認識され、「ある」とか「ない」とかということが疑問に思われるわけである。

つまりこれは、有は有も無も認識できるが、無は何も生じない。すなわち無は無でしかないということである。

TEDの中でハリー氏は、マルチバースについて語っている。
彼によると、マルチバースの多様性?は、実に10の600乗という、天文学的などという言葉がちゃんちゃらおかしくなる数だそうである。
つまり、わたしたちの宇宙は、いやわたしたちというのは、その10の600乗分の1に過ぎないのである。

しかし、その途方もなく小さな可能性は、可能性ではなくて必然であったのである。なぜなら、そのような途方もない組み合わせの中では、当然に「わたし」が生まれてくることも決まっていたはずだからである。