ニッポニア・ニッポン

2011/06/25 11:43


特別天然記念物トキは鴇と書く。
この漢字を見ていてふと思った。これの偏であるヒと十をつなぐと、カタカナでトキと書いてあるように見えるのである。もしもこの字の考案者が本当にそのような意図でこの漢字を考えたなら、わたしはその人のウィットとユーモアに敬意を表したい。

ところで、五木寛之氏に「朱鷺の墓」という小説があるように、今や鴇は滅び行く美しきものの象徴となってしまった。
かつて、日本の水田には鴇が群れをなし泥鰌を啄ばむ姿が普通に見られた。それが農薬の使用などにより激減し、今や絶滅寸前という有様である。
いや、実は鴇に限らず、わたしたちが余り知らないだけで、世界中のあらゆる種類の動植物や粘菌がものすごいスピードで絶滅していっている。

レイチェル・カーソンの「沈黙の春」は、DDTなどの農薬によって鳥が鳴かなくなってしまったという衝撃的事実を告発したものだった。しかし、多くの生き物を絶滅に追いやっているのは農薬に限らない、森林の伐採や巨大なダムの建設、護岸工事などによって生き場を失い滅んでしまった種がどれほどあるか分からない。いずれも人間というたった一つの種のエゴイズムによって滅んでいったのである。わたしたち人間は、自分達の同胞を、かけがいのない兄弟たちを自らの発展と引き換えに絶滅させているのだ。その数は年に何万種にも及ぶと言う。かつて、これほど凄まじい種の滅亡は巨大隕石の衝突以外には有り得なかった。地球に存在する多くの生き物にとって、われわれ人間の存在はディープインパクトと同じくらい危険ということなのだ。

もう5,6年ほど前になるだろうか。あるテレビ番組に感動したことがあった。それは、ある視聴者が番組に投稿したアイデアをアニメにしたもので、たしかタイトルは「みんなの願い」だった。その内容はざっと以下の如くである。
ある日突然、超越的存在の声が人々の頭の中で響くようになった。その声は、人種や性別、年齢などを問わず、すべての人に聞こえた。
「これからわたしは、あなたたちがこの地球上に存在して欲しくないと思うものを一つだけ消去する。みんなの願いを聞いて、その中でもっとも願いの多かったものを消去することとする」
さあ、それからの人類はてんやわんやの大騒ぎになった。日本人を消せ、という者たちもいれば、いや中国人はゴキブリだから、中国人こそ滅ぼすべきだという者たちも現れた。今度こそユダヤ人を撲滅させるべきだ、というネオナチもいれば、モスリムこそ滅ぼすべきだという者もいた。
結局、収拾がつかなくなって国連の場でこの件の決定が下された。
それは、われわれはなんびとたりとも滅ぼす意志を持たない、というものだった。
さあ、そして期限の日時。地球を代表して国連議長がみんなの願いを超越的存在に伝えた。すると、人類は一瞬にして消滅してしまったのである? ・・・何故か?

実は、超越的存在が語りかけたのは人類だけではなかったのである。超越的存在は、草や木やミミズやカラスや蛇や蝶や蛙や螻蛄や、・・・地球に存在するすべての生き物に人間と同じ質問をしたのである。その結果、人間以外のすべての生き物達から人間を消滅させて欲しいというアンサーが返ってきたのだ。
わたしは、これは素晴らしいアイデアだと思ったので、よく憶えている。

もしも、今絶滅の淵にいる生き物たちに口が利けたなら、きっと人間に対する怨嗟の声がとび出してくるに違いない、とわたしも思う。

しかし考えてみれば、平家物語ではないがこの世は諸行無常である。土井晩翠は、月をこの世の栄枯盛衰を映す変わらぬものとして謳ったが、実はその月でさえいずれは無くなってしまうのである。いや、その前におそらく人類は滅びてしまうであろうから、実質月は、いや月だけではない、この世の中全体がその時点で消滅してしまうと言ってもよい。
いや、さらにその前にわたしたち日本人が滅びてしまう可能性は高い。たとえ日本人が滅ばなくとも、日本人が長い年月を使って身につけた美しい伝統や文化、様式はすでに希少動物のごとくになっているではないか。

わたしは、今の日本の現状を思うとき、どうしても鴇と日本人を重ね合わせて見ざるを得ない。ニッポニア・ニッポンの学術名で世界的に知られるこの鳥のように、本当の日本人はいずれ絶滅してしまうに違いないと思うのである。
かつては世界的にもユニークな存在であったニッポンジンは終に絶滅し、その代わりに平板な顔つきをしたインターナショナル人がとって代わるであろうと。

アイ

2011/06/14 20:22


その若い女はアイと名乗った。年甲斐も無く繁華街をナンパ歩きしていて見つけた女。よほどものほしげな顔をしていたからだろうか。あちらから先に声をかけてきたのだ。
不快指数全開のこの時期、彼女の着ているものは涼やかと言うよりは扇情的でさえあった。たしかに彼女にとっては涼しい服装とはいえたが、こちらにとっては見ているだけでじりじり熱くなってくる。

扇情的――こんな言葉を今どき使うのは、そう、おやじ以外には有り得ない。
しかし、なぜこんな親父に彼女は声をかけたのか。金? それはこの界隈では大いに有り得ることではあった。だが、すぐに分かったことだが、けっして彼女はそんな女ではなかった。

シースルーという言葉には、文字通りの意味と相手を見抜く、見通すというような意味もある。きっとおれの劣情も見通されていたに違いない。
黒くて艶やかなシルクのようなノースリーブのワンピース。それがまさにシースルーで薄桃色のスリップはもちろん、その先の真っ白な肌やさらにその先の紫や薄緑色した静脈まで透けて見えそうだった。

大変な美人、というよりこの世のものとも思えぬ美しさだった。子供のころに読んだ御伽噺に出てくるお姫様が現実のものになったような気がした。
心理学の実験で、生後何ヶ月かの赤ん坊に二人の女性を見せる。一人は美人。もう一人はそれなりの人。
すると赤ん坊は、必ず美人の方に気をとられるのだという。いや、もう少し正確に言うなら、美人を注視する時間の方が、もう一人のそれなりの女性を見る時間より長いのだそうだ。

いや、そんなことはどうでも良かった。問題は、なぜ彼女がおれなどに声をかけたか、ということにある。自慢ではないが、世の中におれほど平凡な男はいないだろう。これといって誇るべきものがない。見掛けも中身もへいへいぼんぼん。
いったい、彼女はおれなどの何に興味があって声をかけたのか。いや、ただ声をかけただけではない。このおれと、つまりはホテルで同衾とあいなったばかりか「これからはあなたなしではとても生きてはいけない」とまで、涙が頬を伝うも構わず咽ぶように言ったのだ。
おれは思わずわが頬を抓った。あたりまえだろう。余程のモテ男であっても、こんな凄いイイ女を目の当たりにすれば自信が萎えるに決まっている。

「でも、教えてくれ。なぜおれのような、・・・こんなこれといって取り得もない男が気に入ったんだ」

おれは、随分と迷った末についに口に出した。胸の中にわだかまっていた言葉だった。
「人を好きになるのに理由など必要でしょうか。今わたしは、わたしはあなたを愛するために生まれてきたのだと確信しています」
おれは、きつねにつままれたような気がする一方で、生まれて初めて自信の何たるかを理解した。それは満ち潮のようにゆっくりと全身に漲っていった。それは、彼女をわがものにしたあの瞬間以上におれを恍惚感で満たしていった。

それからおれたちは、同棲を始めた。四十をとおに過ぎ頭のてっぺんが薄くなったしがないサラリーマンと、かたや人も羨む絶世の美人。まさにスッポンと月の同居生活が始まった。

幸福な生活が続く中で、ときどきおれは妙なことを考えたりした。鶴の恩返しである。ひょっとして、おれはいつか自分でも気づかぬうちに何か善行を施したのではなかろうか。
しかし、いくらわが胸の内を探っても、そんな善いことをした記憶は蘇ってはこなかった。

一方、今やおれの妻となったアイは、初めて出会ったときと変わらず、おれに献身的で何ひとつ欠点が見出せなかった。
そんなある日、アイと一緒にデパートに出かけた。その途上で、おれは見知らぬ男から声をかけられた。男は、清潔な白の半袖ワイシャツにノーネクタイ、黒いズボンに黒い鞄を提げている。ぴかぴかの革靴は空の青を映していた。
「いやぁ、これは奇遇ですね。ほんとうにおひさしぶりです」とおれの顔を見ながらにこにこしている。
「そう言われても、わたしにはいっこうに心当たりがありませんが・・・」
ところが男は、いっそうにこやかに笑いながら、おれにこう言ったのだ。
「ええ。それは当然のことです。それが契約の条件の一つでしたから。でも、アイさんはきっとわたしをご存知のはずです」
男は、そう言うとアイをじっと見つめた。おれは、アイがなぜかたじろぐ様子を見せたのにショックを受けた。いやな予感に、おれはたちまち不愉快になった。
「いったい、あんたはアイとどういう関係なんだ」
「はっきりと言っておきましょう。あなたが懸念されているような関係では決してありません」
「それはどういう意味だ」
「それは、あなたがお忘れになっている契約と関係があります。しかし、それについてはお話しすることはできません。それがあなたのお望みになったことだからです」
「その契約というのがどういう代物か知らないが、おまえさんが今ぺらぺら喋っていることは契約違反にはならないのか」
男は、一瞬のけぞる素振りを見せて言った。
「これはこれは、・・・鋭い指摘を受けてしまいました。いえいえ、まったく仰るとおり、わたしのおしゃべりが過ぎたようです。先ほどわたしがお話しましたことは、どうかすっきりお忘れになってください」

それからのわたしの日々は、それまでの幸福の絶頂から疑心と不安の谷底へ落とされてしまったようだった。
しかし、アイにはまったく変わった様子はなかった。わたしの疑心暗鬼を柳に風と巧みにかわすばかりか、なお一層わたしに情愛を注いでくれた。だから、アイが傍にいるときにはまるで日が射したように疑心暗鬼は雲散霧消するのだが、会社で仕事をしているときなどには再び黒い霧のような疑念と嫉妬心が沸き起こってくるのだった。

そんなある日。大きな地震があって、我が家も大きく揺れた。わたしはアイに覆いかぶさるようにして彼女を守ろうとしたが、そのとき弾みで彼女の頭が床にゴツンという音をたててぶつかった。
そのときだった。わたしを実に奇妙な感覚が襲った。アイが消えてしまったのだ。いや、彼女が消えた代わりにそこには一体の木偶の棒のようなマネキンが残っていた。
そのマネキンが口を開き、あの愛らしかったアイの声とはまったく違う、金属的な音声で喋った。

「とうとうわたしの正体が分かってしまったようですね。これで契約は無効となりました。あなたがお支払いになったリース料はすべて返金されます。これまでわが社とお付き合い頂きまことにありがとうございました」

それと同時に、わたしはあの「契約」のことをはっきりと思い出した。
あの契約。それは、わたしがアイロボット社と結んだアイという名のいわば催眠術で人の心に幻想を生じさせるロボットを有償で使用するというものだった。

わたしは素晴らしい夢から覚めたときのあの何ともいえぬ切ない気分に襲われた。夢なら覚めないで欲しかった・・・と心の底から悔しく思った。
わたしは物憂い気持ちのままマネキンを見た。
「おれはこんなものを連れて街中を歩いていたのだ」そう考えると、ひどく惨めな気持ちになった。
本当にこれがあのアイだったのか。アイ、おそらくそれはI、すなわちイメージを意味する名であったのだろう。けっして愛などではなかったのだ。
わたしはうなだれながら考えた。自分が望んだものとはいえ、所詮男女の愛などこのような幻想に過ぎないのではないか、と。昔から言うではないか。一番の愛は母の愛。二番目が犬の愛で、男女の愛などは末の末だと。

バラク・オバマ就任演説より

2011/06/10 23:40
バラク・オバマ就任演説より

As we consider the road that unfolds before us, we remember with humble gratitude those brave Americans who, at this very hour, patrol far-off deserts and distant mountains. They have something to tell us, just as the fallen heroes who lie in Arlington whisper through the ages.

we honor them not only because they are guardians of our liberty, but because they embody the spirit of service: a willingness to find meaning in something greater than themselves.

And yet, at this moment, a moment that will define a generation, it is precisely this spirit that must inhabit us all.

私たちの目の前に続いている道のりを考えるとき、勇敢なアメリカ人たちのことが心に浮かび、頭の下がる思いがします。その人たちはまさに今も、人里離れた砂漠やはるか彼方の山岳地帯でパトロールにあたってくれています。アーリントン墓地に眠る英雄たちが、長い歳月を超えてささやき続けているように、その人たちは私たちに告げてくれています。

私たちが彼らをたたえるのは、彼らが自由を守ってくれているからだけでなく、奉仕の精神を体現しているからです。つまり、自分自身よりももっと大きなものに意味を見出そうという精神を、私たちはたたえているのです。

そして今、ひとつの時代を決定するような瞬間に私たち全員が持たなくてはならないのは、まさにこの精神なのです。

ドラキュラの愛

2011/06/10 23:20

コンピュータは将来感情を持つことができるだろうか、というようなことを考えていると、自然感情とは何かという疑問が生じてくる。
植物には心はない。これはゲーテが言った。しかし、そんなはずはない。植物にないとするなら、蝿や蚊やゴキブリはどうなのか。彼らの動きは極めて機械的でまるで精巧なコンピュータを備えたロボットのようにも見える。では、このロボットに感情はあるのだろうか。

例えば蚊。こ奴は、実に血を吸うことに長けている。さすがに恐竜の時代から血を吸い続けてきただけのことはある。ぶーんと耳元で唸ったので慌てて両手で叩こうとすると、見事に掌の間をすり抜けて、目にも留まらぬ速さでどこかに消えてしまっている。
そして、それから数分間は大人しく、まるでタイマーが体内に仕込まれているかのように襲ってはこない。そして、こちらが忘れてしまったころ、いつの間にかまた忍び寄っている。

少なくとも、蚊は叩かれ殺されることを嫌がっている。だから恐竜が滅んでもジュラ紀を生き延びることができたのである。
また、蚊の雌はドラキュラのようにいつも血に飢えているが、それは産卵にアルブミンが欠かせないからである。つまり、蚊の雌は子孫繁栄のために、常に生き血を求めているのである。

結局、これが感情の原型なのだ。自らの遺伝子を先に繋いでいくために備わったプログラム、それが感情の基本にあるものなのだ。
そう考えてみると、わたしたち人間の感情とてなんのことはあろう。喜びも哀しみも怒りも、どうということはない。ただ、生き残っていくための、自らの遺伝子を先に伝えていくための、蚊などと比べると少々複雑ではあるが、所詮プログラムに過ぎないのだ。

崇高とされる愛にしても大したことはない。蚊にさえ愛はある。その愛ゆえに彼女らは血を吸うのだから。

言論の自由について

2011/06/05 21:28


ちっとも自由ではないのに、自由だと思っている人はすでに自由の奴隷になっている。

有名なゲーテの言葉である。この言葉ほど自由の本質を的確に説いたものはないのではないか。極論をいうなら、この世に自由などありえない。自由というものは、本質的に存在し得ないのである。すべての人間は不自由を託って生きていかねばならない。金があろうと権力があろうと、同じことである。
自由という言葉は、ときに人の憧れを刺激する。イージーライダーの初めのシーンで、ピーター・フォンダ演じる主人公が時計を腕から外して捨てるシーンに感動を覚えた方も多いことだろう。空を飛ぶ鳥を見て、あのように自由になりたいと思う人も多いかも知れない。
しかし、時計を捨て去ることで、果たして自由が得られだろうか。時間の束縛から逃れることなどできるだろうか。いや、決してそんなことはない。誰しもが、・・・人間ばかりではない、全ての生き物が時間に束縛されて生きている。地球の自転と公転に、そして月の満ち欠けに影響を受けて生きている。老化という呪縛から逃れられずにいる。
空を飛ぶ鳥にしてもこの例外であるはずがない。彼らは、より時間とそして空間の支配を受けている。黄昏時になると、カラスはカァカァ鳴きながら自分の巣に戻らねばならない。その大きな木のどの枝のどの辺りに自分の居場所を定めるかは、その社会的地位によって決まっている。好きなところに寝場所を選べるわけではないのである。

そして、言論の自由についてだが、これも幻影である。言論の自由は、他の自由と同じように現実には有り得ない代物である。
わたしたちは、普段友人なりと何気なく話しているときにも、ふとこれに気が付くことがある。ああ、今俺が言おうとしていたことは、決して彼の前では言ってはいけないことだった。ああ、言わなくて良かった。こんな風にそっと胸を撫で下ろしたことは誰にも一度や二度はあるのではないだろうか。
友達とのおしゃべりでさえこうなのだから、こういう公開日記にしても同じことである。わたし自身も、言葉というものに細心とまでは言わずともある程度の神経は使っている。
人は長く生きれば生きるほど、様々な傷を負っている。一片の傷も持たぬような人は、生まれたての赤ん坊を除けば皆無であろう。いや、赤ん坊でさえヘビースモーカーの母親のお腹の中で何らかの傷を負っているかもしれない。

だから、以前にも書いたが、筒井康隆氏の「無人警察」が一部の勢力から非難を受けるのは理解できる。言論はときに人を傷付けるからだ。
イスラムの世界でアッラーを冒涜したらどうなるか、これは火を見るよりも明らかである。ここにも言論の自由はない。共産主義の国で共産党を批判したら粛清を受ける。当たり前のことだが、共産主義言論の自由は敵同士だからである。

こうやって考えてみると、言論の自由というものほど頼りなくか弱いものはない。
しかし、もう少し考えてみよう。言論とは、ある思想やアイデアの発表であり、その多くはただ一人の人間が発したものである。その思想なりアイデアが世に広まると、これに不快感や憎悪を覚える者達が現れる。その者達は言葉は悪いが徒党をなし、自分達に不快感を与えた発信者を批判し強い圧力をかける。これでは、個人に勝ち目はない。そうすると、今度はその発信者を擁護する者達が現れ・・・。こうして世の中には様々な対立の構造が生まれる。

結局は、多くの自由と同様に、言論の自由も勝ち取ることでしか得られない。二つのお互いに対立する思想がある。AとB、どちらの思想が世に受け入れられるか。それは争って勝ち取るしかないのである。ただ仮に勝ち取ったとしても、それは決してその思想が正しかったということではない。進化論と同じく、そのときどきの、その時代時代の社会的環境に、その思想がより適応したものであったというに過ぎないのである。

言論に自由はある。ただし、それは高嶺に咲く花のようなもので、ときに大きな危険を冒さねば勝ち取れないのである。

青春の光と影

2011/06/01 23:16


近頃、青春の光と影にはまっている。映画そのものは見たこともないのに、何となく青春の甘酸っぱさが蘇ってくるような気がするからだ。いろんな歌手が歌っているが、わたしはシナトラの声が一番好きだ。下手な訳をつけてみた。

Rows and flows of angel hair and ice cream castles in the air
And feather canyons everywhere, i've looked at cloud that way.
But now they only block the sun, they rain and snow on everyone.
So many things i would have done but clouds got in my way.

I've looked at clouds from both sides now,
From up and down, and still somehow
It's cloud illusions i recall.
I really don't know clouds at all.

Moons and junes and ferris wheels, the dizzy dancing way you feel
As every fairy tale comes real; i've looked at love that way.
But now it's just another show. you leave 'em laughing when you go
And if you care, don't let them know, don't give yourself away.

I've looked at love from both sides now,
From give and take, and still somehow
It's love's illusions I recall.
I really don't know love at all.

Tears and fears and feeling proud to say "i love you" right out loud,
Dreams and schemes and circus crowds, i've looked at life that way.
But now old friends are acting strange, they shake their heads, they say
I've changed.
Something's lost but something's gained in living every day.

I've looked at life from both sides now,
From win and lose, and still somehow
It's life's illusions i recall.
I really don't know life at all.

青春の光と影 

天使の髪が流れているように アイスクリームの城が空に浮かんでいるように あるいは羽毛の峡谷が広がっているように わたしはそんな風に雲を見ていた
でも 今雲はただ太陽を遮るだけのもの 雨や雪を降らせる困りもの

いろんなことをしたかったのに 雲はわたしの邪魔ばかり

今わたしは雲を両方の面から見るようになった
上から 下から それでもまだなぜか
雲の幻がわたしによみがえってくる
わたしは雲の何たるかを知ってはいないのだ

月が巡り6月も巡る観覧車のように 眩暈のするダンスのように
御伽噺が現実になったかのような 恋のことをわたしはそんな風に見ていた
でも今恋はそれとはまったく別のショーを見るよう 笑いたい奴は笑わせておけばよい
気になっても そんな素振りを見せてはいけない

今わたしは 恋を二つの面から見るようになった
与え そして受け取る それでもまだなぜか
恋の幻がわたしによみがえってくる

なみだとおそれと そしてあなたが好きだと大きな声で言うことの誇り

夢と計画 そしてサーカスの人だかり わたしは人生をそんな風に見ていた
でも今 昔からの友達が変わってしまったように見える 彼らは頭を振って言う
わたしが変わってしまったのだと
何かを失い 何かを手に入れながら毎日を送る それが生きていくということ

わたしは今 人生を両方の面から見るようになった
勝ちと そして負け それでもまだなぜか
人生の幻が わたしによみがえってくる
わたしは人生というものを まだなにも知らないのだ

楽しい英会話教室2

2011/05/26 20:01


4,5年ほど前のことだが、近くのコミュニティーセンターの英会話教室に通ったことがあった。
その当時は、スリランカ人のトニーが教師だった。長身で色が浅黒く精悍なパンサーを見るようないい男だった。

そのトニーにある日、わたしはいつもの茶目っ気を発揮して、
白板にマーカーで次のような英文?を認めてみせた。
これは、日本の有名な詩人によるものだ、との言も忘れなかった。

FULL I CARE CAR WAS TO BECOME M'Z KNOUGHT

すると、トニーは目を白黒させながらひとしきり考えた末、ついにわたしの顔を疑いの目で見て言った。
「ホント?」

わたしは笑いながら、ついでに次の詩も教えてあげた。

TO BE TO BE TEN MADE TO BE