アイ

2011/06/14 20:22


その若い女はアイと名乗った。年甲斐も無く繁華街をナンパ歩きしていて見つけた女。よほどものほしげな顔をしていたからだろうか。あちらから先に声をかけてきたのだ。
不快指数全開のこの時期、彼女の着ているものは涼やかと言うよりは扇情的でさえあった。たしかに彼女にとっては涼しい服装とはいえたが、こちらにとっては見ているだけでじりじり熱くなってくる。

扇情的――こんな言葉を今どき使うのは、そう、おやじ以外には有り得ない。
しかし、なぜこんな親父に彼女は声をかけたのか。金? それはこの界隈では大いに有り得ることではあった。だが、すぐに分かったことだが、けっして彼女はそんな女ではなかった。

シースルーという言葉には、文字通りの意味と相手を見抜く、見通すというような意味もある。きっとおれの劣情も見通されていたに違いない。
黒くて艶やかなシルクのようなノースリーブのワンピース。それがまさにシースルーで薄桃色のスリップはもちろん、その先の真っ白な肌やさらにその先の紫や薄緑色した静脈まで透けて見えそうだった。

大変な美人、というよりこの世のものとも思えぬ美しさだった。子供のころに読んだ御伽噺に出てくるお姫様が現実のものになったような気がした。
心理学の実験で、生後何ヶ月かの赤ん坊に二人の女性を見せる。一人は美人。もう一人はそれなりの人。
すると赤ん坊は、必ず美人の方に気をとられるのだという。いや、もう少し正確に言うなら、美人を注視する時間の方が、もう一人のそれなりの女性を見る時間より長いのだそうだ。

いや、そんなことはどうでも良かった。問題は、なぜ彼女がおれなどに声をかけたか、ということにある。自慢ではないが、世の中におれほど平凡な男はいないだろう。これといって誇るべきものがない。見掛けも中身もへいへいぼんぼん。
いったい、彼女はおれなどの何に興味があって声をかけたのか。いや、ただ声をかけただけではない。このおれと、つまりはホテルで同衾とあいなったばかりか「これからはあなたなしではとても生きてはいけない」とまで、涙が頬を伝うも構わず咽ぶように言ったのだ。
おれは思わずわが頬を抓った。あたりまえだろう。余程のモテ男であっても、こんな凄いイイ女を目の当たりにすれば自信が萎えるに決まっている。

「でも、教えてくれ。なぜおれのような、・・・こんなこれといって取り得もない男が気に入ったんだ」

おれは、随分と迷った末についに口に出した。胸の中にわだかまっていた言葉だった。
「人を好きになるのに理由など必要でしょうか。今わたしは、わたしはあなたを愛するために生まれてきたのだと確信しています」
おれは、きつねにつままれたような気がする一方で、生まれて初めて自信の何たるかを理解した。それは満ち潮のようにゆっくりと全身に漲っていった。それは、彼女をわがものにしたあの瞬間以上におれを恍惚感で満たしていった。

それからおれたちは、同棲を始めた。四十をとおに過ぎ頭のてっぺんが薄くなったしがないサラリーマンと、かたや人も羨む絶世の美人。まさにスッポンと月の同居生活が始まった。

幸福な生活が続く中で、ときどきおれは妙なことを考えたりした。鶴の恩返しである。ひょっとして、おれはいつか自分でも気づかぬうちに何か善行を施したのではなかろうか。
しかし、いくらわが胸の内を探っても、そんな善いことをした記憶は蘇ってはこなかった。

一方、今やおれの妻となったアイは、初めて出会ったときと変わらず、おれに献身的で何ひとつ欠点が見出せなかった。
そんなある日、アイと一緒にデパートに出かけた。その途上で、おれは見知らぬ男から声をかけられた。男は、清潔な白の半袖ワイシャツにノーネクタイ、黒いズボンに黒い鞄を提げている。ぴかぴかの革靴は空の青を映していた。
「いやぁ、これは奇遇ですね。ほんとうにおひさしぶりです」とおれの顔を見ながらにこにこしている。
「そう言われても、わたしにはいっこうに心当たりがありませんが・・・」
ところが男は、いっそうにこやかに笑いながら、おれにこう言ったのだ。
「ええ。それは当然のことです。それが契約の条件の一つでしたから。でも、アイさんはきっとわたしをご存知のはずです」
男は、そう言うとアイをじっと見つめた。おれは、アイがなぜかたじろぐ様子を見せたのにショックを受けた。いやな予感に、おれはたちまち不愉快になった。
「いったい、あんたはアイとどういう関係なんだ」
「はっきりと言っておきましょう。あなたが懸念されているような関係では決してありません」
「それはどういう意味だ」
「それは、あなたがお忘れになっている契約と関係があります。しかし、それについてはお話しすることはできません。それがあなたのお望みになったことだからです」
「その契約というのがどういう代物か知らないが、おまえさんが今ぺらぺら喋っていることは契約違反にはならないのか」
男は、一瞬のけぞる素振りを見せて言った。
「これはこれは、・・・鋭い指摘を受けてしまいました。いえいえ、まったく仰るとおり、わたしのおしゃべりが過ぎたようです。先ほどわたしがお話しましたことは、どうかすっきりお忘れになってください」

それからのわたしの日々は、それまでの幸福の絶頂から疑心と不安の谷底へ落とされてしまったようだった。
しかし、アイにはまったく変わった様子はなかった。わたしの疑心暗鬼を柳に風と巧みにかわすばかりか、なお一層わたしに情愛を注いでくれた。だから、アイが傍にいるときにはまるで日が射したように疑心暗鬼は雲散霧消するのだが、会社で仕事をしているときなどには再び黒い霧のような疑念と嫉妬心が沸き起こってくるのだった。

そんなある日。大きな地震があって、我が家も大きく揺れた。わたしはアイに覆いかぶさるようにして彼女を守ろうとしたが、そのとき弾みで彼女の頭が床にゴツンという音をたててぶつかった。
そのときだった。わたしを実に奇妙な感覚が襲った。アイが消えてしまったのだ。いや、彼女が消えた代わりにそこには一体の木偶の棒のようなマネキンが残っていた。
そのマネキンが口を開き、あの愛らしかったアイの声とはまったく違う、金属的な音声で喋った。

「とうとうわたしの正体が分かってしまったようですね。これで契約は無効となりました。あなたがお支払いになったリース料はすべて返金されます。これまでわが社とお付き合い頂きまことにありがとうございました」

それと同時に、わたしはあの「契約」のことをはっきりと思い出した。
あの契約。それは、わたしがアイロボット社と結んだアイという名のいわば催眠術で人の心に幻想を生じさせるロボットを有償で使用するというものだった。

わたしは素晴らしい夢から覚めたときのあの何ともいえぬ切ない気分に襲われた。夢なら覚めないで欲しかった・・・と心の底から悔しく思った。
わたしは物憂い気持ちのままマネキンを見た。
「おれはこんなものを連れて街中を歩いていたのだ」そう考えると、ひどく惨めな気持ちになった。
本当にこれがあのアイだったのか。アイ、おそらくそれはI、すなわちイメージを意味する名であったのだろう。けっして愛などではなかったのだ。
わたしはうなだれながら考えた。自分が望んだものとはいえ、所詮男女の愛などこのような幻想に過ぎないのではないか、と。昔から言うではないか。一番の愛は母の愛。二番目が犬の愛で、男女の愛などは末の末だと。