杞憂と集合意識

2010/01/17 20:35


以前に杞憂について書いた。杞憂とは、空が落ちてこぬかと毎日心配していたある杞の国の人をからかった言葉である。転じて、余計な取り越し苦労のことを意味する言葉となった。

ところで、杞憂を本来の意味に戻って考えてみたときに、これがおかしいと感じるのは何故だろうか。

? 科学的に考えて空が落ちてくるわけがない。

? 仮に空(あるいは巨大な隕石など)が落ちてくることがあるとしても、その確率は限りなく0に近いであろう。

? 人間(じんかん)いたるところ青山ありで、人間というものはいつどこでどのような死に方をするかなど分からないものである。だから、空が落ちてきて死ぬんじゃないかなどという心配をする前に、もっと足元の危険を考えた方がいいんじゃないの、ということ。

しかし、空から大隕石が落ちてきて人類が滅亡してしまう危険性は0ではない。0ではないどころか、かなりの危険性が指摘されており、そのために地球近傍小惑星(PHA)を監視する組織が作られているくらいである。
だから、杞の人の心配も決してばかにしたものではないということになる。

さらには、わたしが思うに杞憂にはもっと奥の深い人間としての根源的な心理(真理)が垣間見えるような気さえするのである。というのは、?のように、人間は個体としては明日をも知れぬ身である。にもかかわらず、自分自身の生死をよそに人類全体が滅んでしまうのではなかろうかという心配をしているわけである。おかしいと思うのと同時に、何故なんだろうという疑問が湧いてこないだろうか。では、いったい何故なのだろう。

しかしその前に、話はちょっと変わるが、地球上にはいま絶滅が危惧されている種が数え切れないほどある。なにしろ60億もの人間が地球に存在して、わが世の春を謳歌しているわけであるから、その他の生物がその生息場所や環境を奪われ滅んでいくことは理の当然である。
つまりは、人間が多くの絶滅種を「作り出して」いるのである。

だが、その一方で多くの人間がこのことを非常に憂え悲しんでいる。おかしな話ではあるが、これもまた人間のもつ自然の感情である。

そこでわたしの結論であるが、杞憂にしても絶滅種に対する憐憫(と言っても良いと思う)にしても、この源をずっと辿っていけば、わたしたち人間はもとより他のどのような動植物であろうとも37億年前の原初生命から発生しているという根本的事実に行き着く。
つまり、全ての生き物はその根本で一つにつながっており、生き物は「生き物」という名の一つの家族であるということである。人間はその家長であり、その家族のことを心配するのは極めて当然ということになる。

そしてもう一つ。地球上の生命は、これまで何度も絶滅の危機に陥った。その多くはアテン、アポロ、アモール(AAA)のいずれかに属する小惑星の衝突によるものであった。生命は、何らかのメカニズムによりこれを記憶に刻んでいるに違いない。

もしも杞憂というものがこの記憶によるものだとしたら、ただ笑って馬鹿にすることはできないのである。

(誰の作品かは忘れてしまったが、子供の頃に読んだジュブナイルSFの解説に「泣き叫ぶ星」?というのがあった。

それによると、人類ははるか昔にある宇宙人によって絶滅寸前にまで追いやられてしまった。
そして今、新たにまたその宇宙人が地球を征服しにやって来ようとしていた。それを人類に告げる為に過去に人類が打ち上げた衛星が警報を発している、とまぁこのような内容だったと記憶している。

このSF自体をわたしは読んだことがないのだが、このSFのエッセンスは、上に述べたことにぴったり当て嵌まるのではないかという気がするのである)