赦しについて

2010/02/10 22:24

恩を仇で返すという言葉がある。一方、これとは反対に徳を以て怨みに報ゆというのもある。

恩を仇で返すというのは、常識的に考えてあまりに不道徳な、人の道に外れた行いである。しかし、ある心理学によると、これは極めて正常な反応であるらしい。なぜなら、恩を受けるということは、そのこと自体が受けた者にとっては大変な心理的負担であり、ついには恩を施した人を恨むほどになるからだそうである。
可愛がっていた猫がどこからかトカゲを捕まえてきて、目の前にぽとんと落とすのを見ているわたしは、俄かにこのような心理学を信じる気にはなれない。

それにしても、猫でさえこのような情を持つというのに、日本人に大変な恩を受けたはずの中国人がその日本人を惨殺してしまったというような話を聞くのは一度や二度のことではない。彼らは、それほど心理的に負担を強いられたのであろうか。もしもそうであるとすれば、彼らとはその残虐な行いとは対照的な、何とガラスのように繊細な心の持ち主たちばかりなのであろう。

なぜ、このようなことを書くかと言えば、今日たまたま手にとって見た古い週刊文春の「仏頂面日記」に「アーミッシュの赦し」と題する本の書評が載っていたからである。「仏頂面日記」は宮崎哲弥氏のコラム欄である。

2006年10月に起きた事件については、わたしも記憶に留めている。以下は、本文の要約である。

事件は、ペンシルベニア州ニッケル・マインズというところで起きた。
32歳の男が猥褻目的で小学校に押し入り、5人の女子児童を射殺、同じく5人に重傷を負わせ、自らも命を絶った。
アメリカ社会に衝撃を与えたのは、この事件のおぞましさだけではない。犯人の殺意を悟った最年長13歳の少女が、決然と「私を最初に撃って」と哀願したという事実である。さらに、被害者の遺族たちの対応が一般のアメリカ国民を驚倒させたという。彼らは直ちに犯人を赦し、犯人の家族に対する支援活動をはじめたのである。
遺族は全員、アーミッシュと呼ばれるプロテスタントの一派の信徒だった。そもそもこの地域全体が、アーミッシュのコミュニティであり、犯人やその家族もやはり同じ信仰を持っていた。

さて、宮崎氏がこのアーミッシュの赦しを読む契機となったのが光市の母子殺人事件であったという。氏は、法哲学者の井上達夫氏がその裁判に対し「中央公論」7月号で、極刑を要求する圧倒的な世論と、その趨勢に「擦り寄る」かのように死刑判決を下した裁判所の態度とを批判しており、その批判に「アーミッシュの赦し」が利用されていることを知った。氏は、その井上氏の曲解を批判しているのである。

宮崎氏は次のように書いている。
アーミッシュの赦し」の著者たちは、その『赦し』がアーミッシュ独自の価値体系に埋め込まれたものであり、その寛容性は簡単に一般化できるものではないと厳に戒めている。
「彼らは、我々のもつような個人主義に従った生活のなかであの赦しを与えたのでは」断じてないのだ。

わたしは、以前に「水に流すな」という一文を書いたが、水に流すことを日本人の徳目の一つであると今も信じている。ただし、これはアーミッシュの人々と同じように日本人の間でのみ使用可能な通貨として、である。赦しあえるのは同じ日本人の間でのみのことなのだ。
なぜなら、このような日本人の美徳を先に挙げたようなとんでもない人たちに施すと、「怨みに報ゆるに徳を以って」したことさえをも仇で返されることになりかねないからである。