沖縄の島守・島田叡

 

2010/02/11 16:04


古い週刊新潮を読んでいたら、櫻井よしこさんの「日本ルネッサンス」373回に「沖縄戦、県民疎開に尽力した知事」というのがあった。

それによると、ある日桜井さんに星雅彦氏から興奮気味に電話がかかってきたのだという。星氏とは、文芸雑誌「うらそえ文藝」の編集長で、昨年6月9日、日本軍の集団自決命令はなかった、だが沖縄のメディアはそのことを報じないと記者会見で語った人物と紹介がある。

さて、その電話だが、
「昭和19年11月3日、那覇市で県民決起大会が開かれ『県民一丸となって戦おう、元気な者は皆戦おう。老人と婦女子は日本古来の伝統にのっとり、後顧の憂いなからしめるために集団自決しよう』と決議したと報道されています。この決議があったのなら、集団自決は軍令と関わりないことが明らかになります。この報道の根拠は何でしょうか」という内容であった。

沖縄戦で米軍の艦砲射撃が始まった後の昭和20年3月25日から28日にかけて、住民多数が自決、それは軍命だとされてきた。しかし、それより4ヶ月以上前に県民大会で前述の決議をしていたとしたら、軍命説は覆されると星氏は言うのだ。
同決議を報じたのは05年9月号の『正論』だった。発言の主は梅澤裕氏。氏は集団自決を命じた本人とされ、同じく軍命を下したとされる故赤松嘉次氏とともに、大江健三郎氏から「罪の巨塊」「屠殺者」「アイヒマンのように、沖縄法廷で裁かれてしかるべき」と非難された(『沖縄ノート』)岩波新書)。
梅澤氏は集団自決など命じていないとして、大江氏らを訴えている。

私は、星氏に問われてすぐに梅澤氏に電話し、氏が4年前に語った県民決議について尋ねた。
いま92歳の氏は電話口で実に詳細に語った。
「慰霊祭で2度目に沖縄に行ったとき、座間味にいた郵便局長の石川重徳さんから聞きました。昭和19年の明治説(明治天皇誕生日、11月3日)に、沖縄本島で決起大会が開かれた。集まったのは県長(知事)を筆頭に県庁の主要人物、市町村の長や助役、警察、消防の主だった人たちで、軍は参加していないそうです。そこでは、間もなく軍が来る、働ける者は第32軍(沖縄軍)に協力しよう、しかし我々は日本人だ、老幼婦女子は自決して後顧の憂いなきようにしよう、となったそうです」
「梅澤氏はさらに語る。
「決起大会では、サイパンの惨状を考えると、米軍が来れば沖縄はどんなことになるか分からない。だから身の振り方を決めておこうとなった。そのとき、当間という高齢の、日露戦争に行った人が壇上に飛び上がり、『ヤマトンチューはこういうときは死んだ、我々沖縄人もそうして死のう』と言った。出席者らは皆、同調して、決議になったそうです」

県民決起大会の件は当時発行されていた『沖縄新報』が報道したという。梅沢氏らは随分、その新聞を探したが未だ見つかっていない。

島守・島田叡

県民決起大会に参加した知事の泉守紀(しゅき)は、同年12月、沖縄が間もなく戦場になることを恐れて帰京し、そのまま戻らなかった。後任となったのが島田叡(あきら)だった。

この島田氏については、櫻井氏は、日本政策研究センター岡田幹彦氏が「沖縄の島守・島田叡」を基に島田の足跡を辿っている。

それによると、島田氏は牛島中将の懇請により、逃亡した泉前知事の後を任されることになった。昭和21年1月31日のことである。

「私だって死ぬのは怖いですよ。しかしそれよりも卑怯者といわれるのはもっと怖い。私が来なければだれか来ないといけなかった。人間には運というものがあってね」

肝胆相照らした牛島と島田はやがて戦場となる沖縄から出来るだけ多くの県民を疎開させ、同時に県民の食料確保を重要課題とした。島田は島民、とりわけ老幼婦女子の疎開に力を注いだ。結果、県民59万中22万余、本土に5万3千、台湾に2万、戦場とならない県北部に15万の県民の疎開を実現した。

米軍が上陸し戦闘が始まると、島田は壕で県政を行った。だが、壕内にとどまらず、砲火の下、各地に出かけて人々を指導した。空間を広げるため壕を掘る作業にも積極的に加わった。食事は皆と同じものだけを口にした。下着は必ず自分で洗った。村人が川や田で捕らえた鰻や鮒、野菜などを届けると、少しだけ口にして、あとは「怪我人に」といって渡した。
6月19日、『毎日新聞』の支局長野村は沖縄脱出に当たり、島田に別れの挨拶に来て、言った。県民にはもう十分尽くした、文官のあなたは本土に引き揚げてもよいのではないか、と。すると、島田は答えたという。
「君、一県の長官として僕が生きて帰れると思うかね? 沖縄の人がどれだけ死んでいるか、君も知っているだろ」
そして、自分ほど県民の力になれなかった知事は、後にも先にもいないと、嘆じたという。

6月23日、牛島司令官が自決。沖縄は陥ち、県民を守りきれなかった責任をとって、7月、島田も自決した。敗れはしたが、最後まで沖縄と県民を守るべく文字どおり死力を尽くした牛島、島田、そしてあの苦難の時に沖縄にとどまり、沖縄の人々と心を一つにしたヤマトンチューを、沖縄の人々は忘れてはいない。
昭和26年6月23日、島田をはじめ戦没県職員468柱を合祀する「島守の塔」が全県民の浄財で建立された。除幕式と慰霊祭には島田美喜子夫人が招かれた。
岡田氏の綴ったこの「沖縄の島守・島田叡」は涙なしには読めない。牛島、島田両氏が軍と行政の長として指揮した沖縄で、梅澤氏ら軍人が住民に集団自決を命じたなど、あり得ないのだ。