金貨一円

2010/01/21 17:30


鶏頭となるも牛後となる勿れと言われたことがある。大きな会社で下っ端社員でいるよりは小さな会社でも社長でいる方が良いというような意味である。

シャープペンではなく、鉛筆のような人間になりなさいと言われた時には、無視を決めた。鉛筆は「真中に芯が一本通っていて周りにき(木)を使うから」という下らない洒落だからだ。

もう一つ、金貨一円になれとも言われたことがある。これは、昔の日本の一円には紙幣と金貨があって、国内ではどちらも同じ価値なのだが、いざ海外で使うとなると金貨なら通用しても紙幣の一円ではとても使い物にならない。だから、世界で通用する人間になりなさいよ、という意味になる。

しかし、今の日本の教育事情を考えたときに真に世界に通用する人間を産み出しているといえるだろうか。
世界で通用する人間というのは、決して英語が流暢に話せ、フォークとナイフが器用に使いこなせる人間のことではない。
金貨一円の人間とは、自国の文化や伝統についての教養を備え、何よりも祖国に対する深い愛情を持った人間のことである。

「草の葉」で有名なアメリカの詩人ホイットマンには日本の外交使節団を賛美する詩がある。このころの日本は、たしかに文明的にはアメリカに遅れていたが伝統や文化の点では遥にアメリカを凌いでいたから、その挙措振舞いは堂に入っていたものと思われる。ホイットマンも侍たちの誇り高く礼儀正しい姿に感動を覚えたに違いない。
わたしが思う金貨一円とはこのような日本人のことである。

然るに、いまこの国で日教組が行っている教育は、国旗である日の丸の掲揚に反対し、国家である君が代の斉唱を良としない。これはいったい教育の名に値するものであろうか。

日教組、そして輿石東氏とやらに問いたい。あなた方は、世界の国の教育者たちに今あなた方が行っている教育について堂々と胸を張って説明ができるのか。
国歌も国旗も否定するような教育を心の底から褒めてくれるような国があると本当に考えているのか。