相対性理論8(宗教と物理)

2010/03/21 13:56

昨日はリーマン予想について残博を晒してしまった。

それにしても、なぜ物理学者なるものが存在し、多くの者たちが彼らを崇めるのか?

思うに、彼らは、カソリックにとってのローマ法王、あるいは大司教のようなものなのである。宗教家や敬虔な信者たちがひたすら神を希求するように、物理学者たちは、ひたすらに真理を追究してきた。彼らとは実に敬虔な物理教の信者たちなのである。

もちろん、アインシュタインもその例外ではなかった。「神はサイコロを振らない」と神がギャンブル嫌いであることを主張したが、彼の言う神とは、わたしたちが普通に考える神のことではあり得ない。これは、やはり真理と訳すのが正しいと思われる。

ガリレイもそうだった。彼は地動説を唱えたが、宗教裁判に掛けられそうになると、主張を翻した。「それでも地球は廻っている」は、彼の物理学者としての面目躍如であろう。

ところで、昨日述べたように、数学と物理学とは一時疎遠になっていたが、最近になってまた急接近してきたようだ。そもそも数学とは、決して抽象的な架空の学問ではなく、極めて現実的な要求から発展してきたと言っても過言ではない。
文明が進み、土地の権利義務などという面倒なものができると、どうしても幾何学が必要になり、経済が発展すると、複雑な計算を容易にするために代数学が発展した。また、工業を発展させ、戦争を有利にするためには弾道計算や流体の振る舞いを計算する必要が生じた。ここから微分積分が発見されたと考えても良いだろう。

数学も物理学も実用上の必要から発生した。これは事実である。
しかし、それだけのものかというと、勿論そうではない。話が飛躍するが、宗教が人類に欠かせいないものになったのは、皮肉なことにわたしたちの遠い祖先が禁断の知恵の実を食べてしまったからである。

アダムがイブに唆されて食べたとされる林檎は、神がけっして食してはいけないと厳しく禁じていたものであった。しかし、なぜ神は禁じたのか? 

これについての解釈は多々あろうが、二人が神により楽園を追放されたということから逆に推すと、人間だけが他の動物とは違って知恵、つまり数学や物理学やあるいは文学や音楽などといったものを手に入れてしまった。それが故に、もはや楽園の、すなわち老いや死といった苦とはまったく無縁の世界には住めなくなってしまったことを喩えているのである。

旧約聖書が巧みに示すように、人間とは老いや死を忌みすべき不幸であると知ってしまったが故に、数学や物理によって真理を求め、様々な詩歌に人生の儚さを嘆いてみせるようになった生き物なのである。

裏返して言うなら、数学にしても物理にしても、詰まるところはこの不幸の種からすくすく育った学問であるということになる。いや、これらに限ったことではない。文学や音楽も絵画などもすべて、人類の財産としてあるもののすべてが、原罪的な大きな不幸をその種子として、そこから根をはり成長したものなのである。

それにしても、人類が数学や物理の研究に人生を台無しにしてまで躍起になるのが禁断の果実を食べてしまった結果であるとするなら、宗教もまたこれらの学問と同様ではないか。

ただ、宗教家は神という名の、わたしのような不信心な者からみれば幻を追い求め、また数学者や物理学者は真理という名の、これまた無学なわたしなどから見れば解けるどうかも分からぬ難かしいパズルに夢中になっているという違いがあるに過ぎない。

この際、わたしは宗教にもまた難解な学問にも与しないでいることにしよう。
野に咲く花や、蝶や蜂も蜥蜴もおそらく神や真理とは無縁であるに違いないが、己を与えてくれた摂理に忠実にただ生を懸命に生きているではないか。

禁断の果実が齎した知恵というのは、人間が良く生きていくうえでは何の必要もない、所詮は後知恵に過ぎないというのがわたしの結論である。