「空気の研究]についての考察2

2010/05/06 18:52

5月6日 木曜日 晴 15:40

昨日に引き続き、「空気の研究」の考察を試みる。
先ほど、散歩がてらに BOOK OFFまで行って本を二冊買ってきた。イザヤペンダサンこと山本七平氏の「ユダヤ人と日本人」を購うつもりが、それがなくて「皇室消滅」という渡部昇一氏と中川八洋氏の対談と田母神俊雄氏の「田母神塾」に目が留まり、結局これらを買った。これからじっくり読むつもりだ。

ところで、その散歩の途中でいろいろと考えた。今やわたしの頭は「空気」に支配されていると言ってもよい。

考えたのは「臨在感」についてである。臨在感とは、ただの物質に過ぎぬものに対して何らかの感情を移入し、それが単なる物質ではないと感じる、その感覚のことと思われる。
わたしなどは、この「臨在感」からすぐにいたいけな子どもが小さなぬいぐるみを片時も離さず大事に抱きかかえているシーンを思い浮かべてしまうのだが、これも大きな間違いとは言えまい。

神社で目にする大きな石や岩に注連縄を張り巡らせ紙垂(しで)を下げたものなどもこれであろう。仮にその岩が何か謂れのある隕石などであったとしても、やはりそれは単に希少な物質に過ぎないはずである。しかし、この単なる物質に対し、日本人の多くは両手を合わせ静かに頭を垂れる。このようなことを成せるのは臨在感以外のなにものでもない。

確かに日本人にはこのような感覚がある。これは疑いもない。
けれども、これは日本人に限ったことであろうか。いや、そんなはずはない。このような臨在感は普遍的に、人類に共通の遺産としてあるはずだ。なぜなら、人間は一つの生き物であるから。
わたしは、これが臨在感を考える上での原点、スタート地点であると思う。

結論から言うなら、臨在感は宗教と切り離すことのできない感覚、思想である。これは、至極当たり前のことで、臨在感という「感覚」が果たして人間特有のものであるかどうかは知らないが、少なくとも、感覚である以上、生き物にしか存在しないもののはずである。
そして、宗教もまた人間が一つの生物種であることから生まれたものであることも当然である。すなわち、人間は死すべきものとして、またそのことを深く心に刻まれたものとしてこの世に生まれた。
しかも、人はただ生まれ死ぬのではない、その生の過程の中で、新たな命を誕生させ、己の親を送り、そうして死んでいくのである。その歳月の中で懊悩しまた喜びも感じる。そのような夥しい人間の営みの集積の中から、いわば骨の中から宗教は生まれてきたのである。

「空気」の研究の中で、二人の日本人がイスラエルの古代墓地発掘の際に、あまりに多くの人骨を投棄する作業のために心身症(?)になってしまったと書かれているが、これは、おそらく最もプリミティブな臨在感によるものといえるであろう。
原始的宗教は、みなこのような、人骨などに「霊」的なものが宿るとする臨在感を中心にしたものであったはずである。
そして、これを宗教の起源とするなら、その進化の過程において、このような臨在感は、いわばアポトーシスのように、人為的に消滅させられていったのである。それが、三大宗教といわれるもののうちの二つ、キリスト教イスラム教であった。
仏教については、わたしはこれを詳しく調べたわけではないし、中には例外もあろうかと思われるが、仏像を作りお経を唱えたり、またお釈迦様の骨をシャリと称して拝んだりすることから、今もなお臨在感とともにあるといってもよかろう。神道については改めて言う必要もない。

上では、宗教と臨在感との関係について述べた。しかし、臨在感は現代では必ずしも宗教とだけつながっているわけではない。

それが証拠に、拝金主義などという言葉がある。そもそも誰も紙幣をただの紙切れとは見ない。
一万円札のことをユキチなどと言ったりするが、この場合は福沢諭吉先生を敬っているわけではない。たしかに福沢諭吉の肖像が描かれてはいるが、ただの紙切れに過ぎぬものに、日本人だけではない世界中のほとんどの人間が、厳か?な感情を抱いているのである。
もしもこれを疑うなら、一万円札でも千円札でもよい、誰かに足で踏ませてみるといい。おそらく、十中八九拒否されるであろう。これは試したことはないが、外国人であっても同じであろう。自国の金であろうと他国の金であろうと、そのようなことが平気で出来る人間は軽蔑の対象となることは間違いない。

そして、飛躍するようだが、このような経済的臨在感とでもいうべきものをもっと拡張させていくと国家感にも敷衍されるという気がしてくる。
たとえば、国旗がそうである。誰も金を踏みつけないように国旗を地に落としたり踏みつけたりはしない。国歌についても、これは地に落としたり踏みつけたりはできないけれども同じことである。誰も自国のものであれ他国のものであれ、国歌が歌われているときに野次や唾を飛ばしたりはしない。

しかし、ユキチは決して粗末にはしないのに、日の丸や君が代を蔑ろにする者がこの国に多いのはいったいどういうことだろう。
わたしが思うにこれも実は臨在感のなせるわざなのである。なぜなら、これらの者たちも、決して日の丸、君が代を単なる布切れや雑音と捉えているわけではなく、わたしなどとは全く別な、いや全く逆な臨在感を抱いているに違いないからである。

わたしなどは、日の丸を美しいと感じ、君が代に厳かな平和への祈りを感じ、このような国に住まわせていただいていることに感謝をするのだが、これとはまったく違う臨在感を抱く者たちが存在することも認めざるを得ない。

同じ赤という色を見ても、情熱的で美しいと感じる者がいる一方、これを血の色であり気持ちが悪くなると思う者がいるのと同じことである。

しかし、本当にそうだろうか。
宗教が始めは臨在感に根ざすものであったが、進化していく過程において、人為的操作によりそれがアポトーシスされてしまったと書いた。
それと同じように、日の丸や君が代に対するもっとも素朴な、プリミティブな感情さえ、何らかの意図をもった人為的な操作によりいわばデノミネーションされてしまったのではないか。そして、その価値は本質的にはちっとも下落などしてはいないのに、あたかも下落してしまったかのように多くの国民が信じ込まされている。それが、今の日本の姿だと思うのである。

日の丸は美しく、君が代は厳かで平和の祈りに満ちている。こう思えるのは、何よりもそれらが自らの心の投影だからである。つまり、臨在感とは、自らの信仰心や道徳心、価値観の対象への投影であり、自分自身の心の現れに他ならないと思うのである。