愛知トリエンナーレとかが無事に終わったらしい。いやぁ、めでたしめでたし。
なんでも、大成功だったという。
そりゃそうだよなぁ、とひとり思う。
名古屋市長は、うまく乗せられてしまった、と思っているかも知れない。
あれだけの大騒ぎになれば、良くも悪くも世間の注目は集まり、その芸術とやらが優れていようがいまいが、大きな宣伝効果を発揮することは明らかだからである。
しかし、まさかそれを狙っての昭和天皇の御影焼却棄損映像、慰安婦像の設置、放射能礼賛ではあるまい。もしも、そうだとしたらそれは芸術を釣り広告にした悪辣な詐欺に等しい行為だからである。
わたしはもちろん、天皇陛下の写真を燃やす行為が芸術に反するとも、また法律に反するとも思わない。
ただ、そのような行為は反日的であり、わたしのような保守的な人間は絶対にやらないだろうな、と思うのみである。
わたしは、日本人が日の丸を燃やすシーンを見たこともないし、他の国の国旗を燃やす行為も、これは当然法律に抵触するからという理由もあろうが、見たこともない。
日の丸が燃やされるのを見たのは彼の国での写真や映像によってである。
そのような行為を見るたびに、なんと醜い行いだろう、と思う。これが仮に日の丸でなく星条旗であっても五星紅旗であっても、やはり燃やされるのを見れば感じるのは嫌悪の情である。それは例えば、自分の愛犬が蹴飛ばされるのを見たときの怒りと他人の犬が蹴飛ばされるのを見たときの違い程度の違いでしかない。
こういう、人間の持つ素朴な感情に法律など関係がない。そして、もちろん燃やす側の論理においても、旗を燃やしてやろうというその攻撃的な破壊の感情や意思に法律など関係はないのであろう。
要は、燃やす側にも燃やされる側にもあるのは嫌悪の感情であって、美徳とはおよそ正反対の醜さであって、芸術性などいったい何処にあるのだろう、とわたしなどは思ってしまう。たとえそこに芸術を感じさせる何かがあったとしても、それを凌駕する激怒に飲み込まれてしまって、そんなものは忽ち消え失せてしまうのではないか。
それなら、そんな反日という毒性の強いソースを芸術に絡める理由は何なのか。わたしには理解がしがたいのだ。
いや、理解しがたいと言うよりも、一口このソースを舌の上に乗せただけで吐き出したくなるような衝動に襲われてしまうのだ。