宗教の軛

2010/05/16 17:04


これまでに何回か宗教に関連するテーマを書いてきた。
そうした中でつくづく思ったのは、日本とはなんと宗教的に自由な国であるかということである。

封建制度そのものは、ヨーロッパにおけるそれと大した違いはなかったかも知れないが、こと宗教に関しては、人々はただ一人の絶対的神をではなく、この世に無数にある不徳、あるいはタブーを畏れてきたと言ってもよい。

日本とは、実に八百萬の神の在す国であり、その一人一人の神が一つ一つの徳やタブーに対応していたと考えることもできる。
それだけ畏れるものが多かったとも言えるが、これは現代人がマナーと呼ぶものとどれほどの違いがあるだろう。

わたしたちは科学の時代を生きているわけであるから、携帯が普及すればその使い方も知らなければならないし、メールをする上での基本的なマナーについても学ばなければならない。
現代日本には、明らかに携帯メール神というものが存在する。そうでなければ、おじゃる丸の笏じゃあるまいに、あんなものを後生大事にいつも胸の前に抱えているわけがない。
パソコンだってそうである。今や日本人はこの神に支配されてしまったといっても良い。インターネット神という、パソコンの間を自由に行き交う神まで出現した。この神も怒らせると大変に恐ろしい事態を招くようで、政治家などもたびたび炎上という罰を受けている。

畏れを説明するつもりが飛んだ脱線をしてしまったが、日本の古代における神々とは、所詮このようにマナーと大した相違はなかったように思うのである。ただ、そのマナーとは、人の「神」に対するものであったことは言うまでもない。

一神論の世界では、このような日本の状況とはまったく趣を異にする。それは、マナーというよりもむしろ法律に近い。しかも、それは神の作った法律であるから、絶対的に無謬であり、決して変えることのできないものである。

しかし、良く考えてみれば分かるとおり、神の法律(聖書やコーラン)とは言っても、所詮は誰か人間が考え出し作ったものである。これが無謬であるはずが無い。これを無謬であるとするのは、偏に信仰心による錯覚である。
このような、ごく自明な考えに多くの頭脳明晰な科学者たちが至らなかったわけがない。
しかし、ガウスなどは、非ユークリッド幾何学の存在を確信していながら、宗教論争に巻き込まれるのが嫌さにそれを公表していない。

このように、キリスト教イスラム教に支配?された国々においては、人々は決してその軛から逃れることはできなかった。キリスト教イスラム教、というよりは、聖書やコーランと矛盾するような自由な発想を公にするには相当の勇気と覚悟が必要だったのである。

この点、日本は非常に自由であったと言っても良いのではないか。それを証明するものの一つに算額がある。これは江戸時代に一般の町民などが数学の問題が解けたことを祝って寺社に奉納したものである。これを見ると、如何に当時の人々が、大人も子供も数学に深い感心を寄せ、しかも豊かな発想を持っていたことが瞭然である。
また、このようなことからも、神社や仏閣に数学を忌避したり、あるいは検閲するような空気がなかったどころか、むしろ奨励していたことが分かる。

日本の明治維新以降の科学技術の発展を考えてみた場合にも、結局は日本古来のこのような宗教的おおらかさ、自由さが大いに寄与していたに違いない、とわたしは考えるのである。

神道万歳。日本的アニミズム万歳と叫びたい。