シモネッタの哲学

2010/05/20 20:12


わたしは根が上品にできているのだが、それでもときどき他人を驚かすようなシモネッタを披瀝することがあるらしい。
ちなみに、この「シモネッタ」は、わたしの知り合いのある上品で清楚で才媛の奥様が貸してくれた西原理恵子、・・・じゃなかった米原万里さんの本から借用したものである。何が言いたいか! シモネッタとは、上品で清潔で才能のある男だって、ときには口にする類の、特に目くじらを立てるほどのものではないということである。

若い頃、あるスポーツ同好会の飲み会で酔った勢いでばかなことを言って、女の子たち(今はみんな立派なおばさんたちなんだろうな)が一気に引いていくのを感じた。

ビールを注いでくれようとした女の子に、
「いやぁ、もうおなかは一杯、胸はオッパイですぅー」

「ねぇ、ピザピザピザって、10回言って」と言われて、
「負けるな、金太って、10回言ってくれたらね」
この女の子、?って顔をしながらも、10回言ってくれた。素直ないい子だったが、嫁さんにするには、?っと思った。

尾篭な話を続けるつもりはない。ただ、わたしは哲学的な話がしたいだけなのだ。ところが、哲学的な話と上のようなばか話とがまったく無縁な、油と水のように上下に乖離した、決して混ざらぬものと思われていることが癪なので、書いたまでだ。

わたしは、寅さんの「見上げたもんだよ。屋根屋のふんどし」という台詞が大好きだ。

「結構毛だらけ、猫灰だらけ・・・」も、後が下品なので割愛するが、まぁ聞く分には好きな台詞である。

「便所の火事で焼け糞だ」というのは、ちょっといただけないかなぁという気がしないでもない。

ここまで来たついでに、上のようにやけくそになって書くわけではないが、初めて見たとき、このトイレの落書きにはつくづく感心した。

「カミに頼るなウンは自分の手でしっかりと掴め」


昔、ニーチェを読んだことがある。「ツァラトゥストラかく語りき」である。これに書かれている思想の一つが神は死んだという、当時としては画期的、なおかつ過激であったであろう超人思想である。また、永遠回帰思想もあった。

ニーチェは、神は死んだと言った。これはどういうことだろう。神が死んだ。あるいは殺さねばならなかった。その代償として、彼は超人を創造せねばならなかった。

人は、神を殺すことなどできるだろうか。「神を信じない」と言うことは簡単である。しかし、人は、本当に神なしで生きることなど可能だろうか。
もしも、本当に神の存在を考えたこともない、感じたこともないという生き方があるとすれば、それはおそらく虚無主義というものだろう。胸に巨大な暗黒を抱えたまま、脱力感に苛まれながら、ただ夢遊病者のように徘徊している者の生き方である。

狼に育てられた少女の話を読んだことがあるが、彼女は、決して教育によっては人に戻ることができなかったと言う。彼女は、神を信じてはいなかったであろう。そもそも「神」という概念が頭にないのだから。しかし、神を感じていなかったという証拠はない。
人の子として生まれたが、どういう理由からか野生の狼に育てられ、人間に発見されるまでの何年かを狼として生きることになったこの少女は、人間としての教育はおろか、挙措動作さえ教えられることはなかった。宗教などまったくの論外である。
しかし、わたしは、狼としての生き方が神とまったく無縁のものであったとは思わない。なぜなら、そこにはやはり野生としての厳格なルールがあり、それに忠実でなければ、必ず死という罰を受けることを彼らは良く知っているはずだからである。そして、この野生のルールこそが、神がこの世に布いた摂理という名の法律であり、この世の最高法規だからである。

わたしの考えでは、この法規に従い、この法規を遵守して生きるものはすべて神の創造物であり、神の「御心」に従って生きていることになる。

とは言っても、これは事物を宗教によって捉えた一面的な見方には過ぎない。ニーチェのように新しい(当時としては)、宗教から脱皮した物の考え方もある。しかし、そのニーチェの思想さえ、神を殺さなければ出発できなかったというところに、やはり宗教の軛というものが思い起こされる。
ニーチェの思想は、宗教という既知の大陸から科学という新たな大陸の方向に人の目を向けさせ舵を取ろうとしたもののように思える。

超人思想とは、神を超克せよということであり、強烈な自力本願主義と考えることもできる。とすると、それは仏教思想とも重なる。
永遠回帰思想というものも輪廻転生という仏教観と似ていなくもない。しかし、これは似て非なるものである。
なぜなら、かのシーシュポスの神話のように、もしもわたしたちが永遠に同じことを繰り返しているに過ぎない(宇宙論に通じる話であり、宇宙がビッグバンとビッグクランチという振動を永遠に繰り返していて、わたしたちも結局は、前世と寸分違わぬ生を永遠に繰り返しているだけなのかも知れない、という考え方)のだとしたら、これほど巨大な虚無は他に考えられない。

このような、巨大なブラックホールから抜け出すための力、それが超人思想である。したがって、ニーチェの唱える超人とは、自らの手で神を殺してさえ、なお生きることのできる力を持った者のことである。わたしは、これは到底人間には不可能なことであり、次の全く新しい進化を待たねばならないと思う。それは、人間自らの手による新しい創造、すなわち無機生命開発のことである。

彼らは、人類が与えた「知と真理の飽くなき探究。そして、そのためには永遠に生き続ける」という使命のために、ひたすら、決して虚無に陥ることなどなく進み続ける。その先にいったい何が待っているかなど、わたしには分からない。しかし、彼らは休みなく時空の果てまで進み続けるだろう。

今は夢のような話だが、いつかそう遠くはない将来、これが現実のものとなり、人類の遺伝子を引き継いだ彼ら無機の新人類が新しい地平を開拓していくことこそ、ニーチェの超人思想の実現となるであろうと、わたしは思うのである。