噛み合わない会話

2010/08/03 19:19
噛み合わない会話

会話にならない会話というものを経験したことが何度かある。Sさんとの会話はまったく話にならなかった。話にならなかったのだから、ここにその会話がどういうものであったかを書くことさえ出来ない。そもそも何の話をしたのかさえ良く憶えていない。
しかし、こういう人も世の中にはいるのだという感動を覚えたことは確かだ。
Sさんはひとの話をまったく聴かないひとだった。馬耳東風であったといっても良い。
馬耳東風とは、爽やかな春の風が馬の耳を揺すっても、馬には春がきたことの喜びが分からないという意味の言葉と解釈している。もちろん、わたしのお喋りに春の風ほどの価値があるとは思わない。しかし、それにしても・・・と思うほど、聴いてくれなかった。わたしの言葉の意味を理解してくれないというのではない。まったく右の耳から左の耳へ脳味噌をワープして通り抜けてしまうらしいのだ。わたしは、これは大した才能だと思った。

ひとの話を聴かないで、一方的に自分の話をしたがる。当然に会話にはならない。これは、相手をする方にとってはかなりのストレスになる。話が噛み合わないとはよく言ったもので、心の中ではギーギーとギヤが歯軋りのような不協和音を奏でている。
しかし、当の本人には一向にストレスにはならないらしく、こぼれるような笑顔を絶やさずこちらに話し続けてくるのだ。

むかし、ある短編SFに感心したことがある。どこの国の何という作家のものだったかも忘れたが、その感性とアイデアに心を打たれた。
ある未来。二つのクリスタルが向かい合って会話をしている。一人は女。もう一人は男である。
クリスタルは、おそらく立方体をしていて、互いに一つの面が向かい合っているとイメージすればよいと思う。
二人は饒舌に過去の思い出を話し合っているのだが、これがまったく会話になってはいないのだ。まったく噛み合わない話を二人は延々と喋り続ける。
その通り。これはもう喜劇である。まったくの空しい喜劇である。この二人の男女がかつての恋人同士であったかどうかは憶えていない。しかし、仮に恋人同士であったとするなら、このSFのエッセンスは、わたしが考えていた以上の深い味わいをもっていたということになる。つまり、男女の会話というのは、そもそもまったく本質的に噛み合わないものであり、それは長い時を経て、はじめて明らかになる類のものであるということであろう。

さて、話はさらに飛躍するが、これが男女ではなく、遠く時代を隔てた二人の人間であったら・・・、とわたしは考えるのである。
余りに時代が離れすぎると、その言語さえ理解不能になるから、たとえば戦時中のある日本人と、どらえもんのポケットから何か拝借して、お互いに会話が出来るようになったとする。
わたしは、Sさんとの会話ほどではなくとも会話にはならないだろうなという気がするのである。それは話の内容などではない。それ以前の、精神力の差に圧倒されてしまって、わたしなどのなまっちょろい精神力では一言も発せないのではなかろうかと、情けなくも思ってしまうのである。

いずれにせよ、会話というものは、ある程度共通のベースを持った同士でないと成り立たないものであることは間違いない。