日本的核武装達磨論

2010/10/16 11:28


MXTVを見ていた。西部邁さんが司会役で伊藤貫氏をゲストに秋山何とか太子さんと三人で時事問題を話しあうという、つまり鼎談番組である。
伊藤貫氏とは何者かと言うと、この人は国際政治・金融アナリストである。アナリストとは分析家のことであるから、つまり今の緊迫した日シナ関係を論じるには最適の人物であるとも言える。このお方は、ワシントンDCに本拠地があるらしく、この度は束の間のご帰郷ということで、本番組に呼ばれたものと思われる。
それはともかく、内容は非常に面白かった。聞かなきゃ損というくらいであった。
まず、オバマ核廃絶論について、伊藤氏はこのように述べられている。
「第二次大戦が終る前に、当時のF・ルーズベルトチャーチルとが会談して、『戦後の日本という国は武装解除させなければならない』と決めた」
「また、1972年に周恩来キッシンジャー国務長官が会談した折には、周恩来が『日本という変な国にだけは断じて核を持たせてはいけません』というようなことを宣ったところ、キッシンジャーも『まったくその通りです』と肯べった」のだという。

伊藤氏よると、現代の日本人の思考レベルというのはチャイナに比べるととても低くて、5歳児と10歳児が言い争いをしている程度なのだそうだ。とすると、マッカーサーの日本人に対する評価はかなり高かったことになる。なぜなら、ダグは、日本人の知能程度は12歳程度と言ったのだから。

しかし、まぁそんな揚げ足取りはやめておこう。要するに伊藤氏は、朝日や毎日などに代表される革新勢の「非戦、9条護持」を5歳児程度の未熟な論理であると笑っているのであり、同じく産経や読売に代表される新興保守の「いざとなったら、アメリカというつおいおじさんが助けてくれる」という思考を10歳児程度であると笑っているのである。

さて、少し話を戻して伊藤氏の話をよく反芻してみると、わが日本は国際的な陰謀により、達磨さんにされてしまっているということになりはしないだろうか。つまり、核武装という国家としての当然の権利(とわたしは考える)がいくら欲しくても手も足も出せないのだ。まず、憲法という封印がされてしまっている。それに加え、シナや米、英国の「日本は変な国だ」という共通認識である。
したがって、わが国が本当に核武装をしたいなら、憲法の改正よりも先にここから始めなければならないことになる。なぜなら、現憲法というのは、米英を始めとし、それにシナが巧みに便乗した日本異質論を土台に築かれた深慮遠謀による戦略の一環だからである。

今の日本人の知能はせいぜい10歳児程度であると伊藤氏は断言された。氏によれば、明治以前の日本人は、おそらくエリートクラスの話であろうが、漢籍の読めぬ者はいなかったという。つまり、その頃のエリートクラスというのは、四書五経に通じていて当たり前だったのである。
しかし、なぜ漢籍がそれほど重要かというと、これはわたしの想像だが、漢文というのは日本語とは違って、逆に英語などと同様の非常に論理的な構造になっているからではないか。日本語というのは、思うに手弱女の言葉である。言い換えれば感性的な、文学的な言語である。それに対し、漢文は論理的な益荒男の言葉であるという気がする。
日本異質論が声高に唱えられ、それに対しわたしたちもなかなか反論できないのは、多分に日本語の構造に因るところが大きい。わたしたちは、日本語を自家薬籠中のものとして使っているため、なかなか気が付かないでいるが、日本語というのは外国人に非常に誤解を与えやすい曖昧さを多分に含んだものである。当に玉虫色の言語といって良いのではないか。確かに美しくはあるが、見方によってその色彩が全く異なって見えるようなところがある。さらに、その言語によって培われたわたしたち日本人の思考形式は、決して他国の人に理解しやすいものではないであろう。

と言っても、わたしは、同じ日本人同士が英語を使って仕事をしなければならないなどという今どきの風潮に与するものではない。ばかりか、非常に愚かしいことだと思う。しかし、愚かしいと思っていることばかりが愚かでないとも思わない。ここは、「友愛の海」などという馬鹿げた非現実的な思想ではなく、彼らの日本異質論に一石を投じるような、真の革命的理論を展開して、日本が本当の独立した大人の国にならなければならない時期なのではないだろうか。