歴史認識について、または過去の自分との対話

2010/08/04 15:22


一昨日、噛み合わない対話について書いた。そこから連想が広がり、それでは、過去の自分との対話というものが可能としたら、いったいその会話はどういうものになるかと考えてみた。

一時タイムカプセルというものが流行した。
中学校の卒業時に、生徒達が未来の自分に向けて何かメッセージを認める。それを学校がまとめてコンテナーに入れ、土中に埋めるというあれである。そうして、それから5年後の成人式の日。学校から恭しく郵便物が送られてくる。
わたしは、これを読んだとき非常に恥ずかしかった。ちょうど自分の生の声をテープレコーダーで聞いたときのようだった。あるいは、大型家電販売店の前を歩いていて、突然大きなTVディスプレイに自分の歩く姿が映し出されたときのような恥ずかしさであったといっても良い。
その幼稚な文章を目の当たりにしたとき「これを書いたのは、ほんとにわたしだろうか」と思った。

ずいぶん成長したものだと喜ぶべきだったのかも知れない。しかし、わずか5年にしてこれである。
はたして、二十歳のときの自分と相対して会話をすることが可能になったとして、その会話は弾むだろうか、と考えたのである。

先日、BSで「オースティン・パワー」というバカ丸出しの下劣な映画をやっていた。もちろん、こんなものはわたしの目に耐える作品ではない。わたしはお愛想程度に、ちょこっと齧るほどに見た。いや、正直に言おう。結局は最後まで見てしまった。
なぜこんなものを取り上げたか。それは、ミニミー(第三者からはミニユー)というDrイビルのちびクローン(小人)が唯一おもしろいアイデアだと思ったからだ。

もしもわたしが、○○年前のミニミーと会話が出来たとして、果たして一卵性双生児のように意気投合できるだろうか。答はNOであろう。
わたしたちは時空連続体である。記憶というものを介して過去の自分と連綿とつながっている。この記憶の糸は、大きな事故や病気にでもならない限り決して途切れることはない?
いや、糸は無数にあり、またその糸の一本一本は決して頑丈なものではない。途中で忽然と消えてしまうものもある。糸は複雑に絡み合い、長く真っ暗な洞穴の中を延々と続いている。洞穴はあちこちに分岐し、いったいどの経路を辿って過去の自分に辿りついたのかさっぱりわけが分からなくなってしまう。
過去の自分は、記憶の糸を辿っていくことによってではなく、何かの拍子に突如として現れるのである。

過去の自分が、なぜ、あのときあんなことを考えていたのか。あるいは感じていたのか。――それを何十年も経ってから思い起こすというのは、結局は歴史を掘り起こすのと同じことである。

自分自身の、ほんの数十年前の些細な精神史に過ぎないのに、なぜあのとき自分はあんなことを考えていたのだろう、あるいは、なぜあのとき自分はあんな薄情な女に夢中になっていたのだろうと、その原因を究明することはそう簡単なことではない。なぜなら、あのときと今では脳の回路が、その結線の仕方がまったく変わってしまっているからである。いや、脳だけではない。体力や気力といった体内環境もあのころとはまったく違ってしまっている。つまり、肉体という入出力装置、および脳という情報処理装置がまるっきりあの頃とは変わってしまっているのである。あの頃のデータをぽんと入力してやれば、あのころと同じ答がでてくるというものでは決してないのだ。

あの頃好きだった女(ひと)を、今のわたしが同じように好きになれるとは決して思えない。今となっては、あの女の欠点ばかりが目に付く。だから、わたしは、あの頃のミニミーにもしも忠告が出来るなら「決してその女とは付き合うな」と言うであろう。
しかし、ミニミーは必ずや
「余計なお世話だ。ほっといてくれ」と言うに決まっている。

だから、わたしのミニミーとの会話は、グローブを片手にピンポン球でキャッチボールをするように、あるいは空気の抜けたサッカーボールを蹴りあうようにきっと弾まないことであろう。

歴史認識というものはこれほどに難しいことなのである。