「憚りながら」

2011/07/17 20:18


わたしは、ほとんどの日本人と同じようにやくざなど大の嫌いだが、どういうわけかその破天荒な生き方にはついつい魅了されてしまうのだ。ときに、やくざの生き方こそ本来の人間のあるべき姿ではないか、とさえ思い込んだりしてしまう。
山一抗争で凄絶な死に方をした竹中正久氏もそうだったが、山口組直参後藤組を率いてきた武闘派にして経済やくざとまで呼ばれた後藤忠政氏の半生にも感動を覚える。

後藤忠政氏は、現在山口組と絶縁し天台宗の僧侶となられた。そして、今回の大震災では水や食料、毛布などの援助物資を10tトラックに載せて被災地に運ぶなど、政府などよりもはるかに迅速な支援活動をされている。
当たり前のことだが、やくざの親分などというのは、やはり相当な人物でなければ務まらない。頭脳明晰の上に人望がなければ子分たちはすぐに離れていってしまうだろう。
後藤氏は、少年時代を極貧の内に過ごした、と書かれているが、実はこの人の祖父は地元、富士宮市の名士だった。富士川発電や伊豆箱根鉄道を興した後藤幸正氏である。
しかし、この大祖父が築いた巨万の富も親父の代ですっからかんになってしまったのだという。

この人は思想的には保守である。やくざを辞めて得度したわけは詳しくは書かれていないが、わたしにはおおよその見当はつく。この人は心底から日本人だったのだ。だから、大悲会の野村秋介氏を無二の親友とした。そしてまた、その野村秋介氏の理解者であった僧侶とも親交を結んでいる。この僧侶が実は氏を天台宗に得度させたのであるが、そのエピソードがまた面白い。

野村秋介氏が朝日新聞本社で「すめらみこといやさか」と三度叫んで拳銃で胸を打ち抜いて死んだことは世間に大きな衝撃を与えた。 東大病院の霊安室にあった遺体を警察が司法解剖するために飯田橋の警察病院(当時)に運ぼうとしていた現場に後藤氏とこの天台宗の僧侶が偶然居合わせたのだという。後藤氏は、親友であった野村氏の遺体が切り刻まれることを良しとせず、警察と悶着を起こしていたときに、この僧侶が後藤氏を諌めたのだという。遺体は、結局警察の計らいで家族の元に即帰されることになったのだが、実は、これが縁で後藤氏はこの僧侶の下で得度を受けることになるのである。

この僧侶は、本当に変わった人である。この人の背中にはなんと刺青が入っているという。それもただの刺青ではない。左の肩には野村秋介の名前が刻まれ、真ん中には「俺に是非を説くな 激しき雪が好き」という野村氏の歌。そして、右の肩には、後藤氏もこの僧侶に得度を願いに伺ったときに初めてその背中を見せられて驚いたというのだが、なんと後藤忠政と己の名前が入っていたのだ。

この僧侶は、後藤氏が現役時代に「得度するときはあんたに頼むぜ」と言った言葉を信じ、いずれ氏が仏の道に入ることを予見していたのだ。そして「あの時、わたしはきっと人生かけて、あなたを背負っていくようになると悟ったんですよ」と言ったのだという。

本当に面白い。しかし、続きはまた明日書くこととする。