2010.08.02産経「正論」より

2011/08/20 23:00

以下は、去年の8月2日にトピとして上げたものです。歴史御杖代さんからもコメントを戴きました。余りに新保氏の文章が秀逸なので、もう一度掲載しようと思います。

本日(8月2日)の産経新聞は、石原慎太郎氏の「日本よ」も「正論」も素晴らしかった。両方とも紹介したいくらいなのですが、今日は「正論」を、文芸評論家で都留文科大学教授の新保祐司氏の「欺瞞を脱し『本来の日本』再建を」と題するコラムを紹介させていただこうと思います。

このコラムのキーワードは「かのよう」なです。これは、森鴎外の作品「かのよう」から新保氏が思いついたとのことです。最初を少し端折らせていただきます。

「聡明な懐疑主義者として、鴎外はドイツの哲学者「ファインゲル」の『かのようにの哲学』を参考にしながら、自由とか義務とか絶対とかは存在しないが、それらが存在する「かのように」考えなければ、人間の倫理は成りたたない、という。そうなると、社会は崩壊してしまうから、自由とか義務とか絶対とかがある「かのように」考えるというのである。
近代日本における最高の宗教哲学者・波多野精一は、このような考え方を「自覚された虚偽の世界。「欺瞞の態度」と批判したが、この「かのように」見なして生きる態度は、鴎外個人を超えて、近代の日本人の精神の底に潜んでいる。
私は、戦後の日本に、このような「自覚された虚偽」「欺瞞の態度」を強く感じるのである。昭和27年4月28日に、日本は独立した。しかし、その後の日本は、自主独立の国家であろうか。独立した国家である「かのよう」な国家ではないか。
「占領下」に現行憲法は作られた。独立後も、この憲法を日本人が作った憲法である「かのように」思い込もうとしている。
このように根本のところで「かのよう」なものの「欺瞞」をしている国家は、結局国家である「かのよう」な国家であり、その中で生きている日本人も日本人である「かのような」国民にすぎなくなる。さらには、そういう国では、人間は生きている「かのような」国民になっていってしまうのではないか。今日、流行している文化は、そのような人間にふさわしいものである。
今、必要なのは、この趨勢を逆転して日本である「かのよう」な日本を、本来の日本に立て直すことである。

どうでしょう。実に手厳しいけれども、腹の底にずんとくるような言葉だとわたしは感じました。そして、目の覚めるような文章がさらに続きます。

「勇ましい高尚なる生涯」

国家がそういう確固としたものに回復するのには、まず国民一人一人が、住民や市民、あるいは地球人といった虚しい存在から脱却して、本来の日本人という国民にならなければならない。
そのための一つの道しるべとして、私は内村鑑三の『後世への最大遺物』を夏休みの読書として読むことをすすめたいと思う。これを一人でも多くの日本人が読み、何か一つでも行動に移していけば、日本人は、あるいは日本という国家は「かのよう」な存在であることから、本来の自主独立した存在へと脱却していくであろう。
『後世への最大遺物』は、明治27年、鑑三が33歳の時に箱根で行った講演である。現在、岩波文庫に『デンマルク国の話』とともに一冊になっている。

人間が遺すものに、金や事業や思想がある。しかし、これらは何人にも遺すことができるものでもないし、また「最大遺物」でもない。鑑三は、それならば最大遺物とはなんであるか。私が考えて見ますに人間が後世に遺す事の出来る、そうして是は誰にも遺す事のできるところの遺物で利益ばかりあって害のない遺物である。それはなんであるかならば勇ましい高尚なる生涯であると思います。是が本当の遺物ではないかと思う」と語っている。

金、事業、思想といったものよりも「勇ましい高尚なる生涯」の方が「最大」なのだという逆説を分かっている日本人が、日本という国家を支えてきた国民であった。鑑三は、この講演を「我々は後世に遺すものは何にもなくても、我々に後世の人に是ぞと云うて覚えられるべきものは何にもなくとも、あの人は此の世の中に活きて居る間は真面目なる生涯を送った人であると云われるだけの事を後世の人に遺したいと思います」と結んでいる。

「勇ましい高尚なる生涯」を志す人間は、日本である「かのよう」な国家に生きていることに耐えることができない。今や、日本であることにしっかりと根差した本来の日本の再建にとりかかるべき秋である。

わたしは、これをすばらしい檄文と捉えました。内村鑑三の『後世への最大遺物」是非読んでみたくなりました…