無為自然について

2012/04/14 20:54


老子、荘氏について書かれたものを読んでいて、なぜシナという国にはこのような思想が生まれるのだろうと考えた。
シナ(もちろん、この時代にこのような国名の国は存在しなかった)には、孔子孟子墨子も列氏も荀子も存在した。
何故諸子百家などと呼ばれるこれらの人物がシナには存在したか。
それは、シナが戦争と治世に明け暮れる国であったから。そのような結論に達した。戦争と平和がこれら諸子百家の源泉なのである。

しかし、老子と荘氏は少し変わっている。老子は文明を批判し、荘氏は一切斉同、無為自然の道を唱えた。故に二人は道家創始者とされる。

無為自然とは、わたしの理解では人間の行いは本質的に無為ではなく有為であり、自然に反することである、とする考え方である。有為はそのまま人為となるから、無為自然は人為を排した全くの自然そのままということになる。
これに従えば、現代の文明と呼ばれるものはもちろんすべて有為不自然ということになる。原発も核もテレビもパソコンも携帯もスマホも車も皆有為不自然の産物である。

もちろん、このような思想には反論も多いことであろう。
おまえはいったい何様のつもりじゃ・・・、とか言って怒られそうである。いやしかし、わたしは老荘思想には是を唱えるが、残念ながら、これはわたしが考え出した思想ではないのじゃ。

これの修正版が有為自然の思想であろう。これは淮南子列子が唱えた。
列子の言葉を引いてみよう。

「真理を体得したものは無言であり、真理を知りつくしたものも無言である。しかし、無言にとらわれて、無言こそ真の言だと主張するものはまだ言にとらわれているのである。
無知にとらわれて、無知こそ真の知だと主張するものは、まだ知にとらわれているのである。無言無知だといっても、それにとらわれているあいだは、まだ言や知を離れているとはいえない。真の無言無知というのは、何でも言いながら、しかも何も言わず、何でも知りながら、しかも何も知らないことである」(森 三樹三郎著 老子荘子より)

まるで、禅問答である(禅は道家の影響も受けているので当たり前といえば当たり前か)。

しかし、列子のこの言葉は、荘子の言うような生き方をすれば、人は皆生ける屍になってしまう、という批判からは逃れることはできよう。
考えてみれば、原発も核も携帯もスマホもテレビも車も皆、人間が自然の原理を応用したものに過ぎない。

それで思い出したが、亡くなった小松左京氏がはみ出し生物学の中で、アキアカネを見ながら次のような感慨に耽る場面がある。
「人は君のような飛ぶ生き物を見て飛行機を発明し、鮫を見て潜水艦を発明したのだ。けれども、この自動車に使われているベアリングだけは生物界にはないものだ・・・」(kiyoppyによる一部創作あり)

しかし、小松さんの感慨をよそに、今日では鞭毛を持つ微生物はミクロのベアリングを有していることが分かっている。

携帯にしたって、これは小松さんの感慨と同じように電波や光を通信手段に利用した生き物などかつて存在しなかったではないか、と鼻息を荒くする人もいるかも知れない。きっと、蛍のことを知らないのであろう。

つまり、有為とは言っても、結局は人間も自然の一部なのだから、有為自然も無為自然の一部である、とするのが淮南子、そして列子の思想であると思うのである。

列子淮南子によって老荘思想はより消化に良いものとなった。
しかしわたしには、この二人は老荘思想プラグマティズム、ユーティリタニアニズムに貶めてしまったなぁ、という感慨も少しは残るのである。