鎮男11

2012/06/03 14:24


最初は、コンピューターセキュリティーの会社とタイアップしてウィルスの脅威を宣伝することからはじめた。
「進化するウィルスには、進化する免疫ソフトを」
コンピュータウィルスが生命を滅ぼす!?」
「工業、学術、医療、交通……、あらゆる場にウィルスの侵食が」
コンピュータウィルスが生物ウィルスに変わる日」等々、余り目立ちすぎないように気を使いながら、それでも一部の選ばれた者たちにはわれわれのメッセージの意味に気がついてもらえるように配慮したのだ。
また、その分野の権威で信用のおける人たちには手紙を書いた。そのうちの99%は、この手紙を無視するか、すぐに屑籠に放り込むであろうが、残りの1%が頭の隅に我々の危機感を感じ取って憶えていてくれることを期待して。
その手紙は、世界中のあらゆる言語で書かれ、その総数は1万通を越えた。いずれも政治や経済、科学技術、医療、交通などの各分野で権威や権力を持つ人たちへ私と鎮男の連名で送ったものだった。
予想したとおり、返事はごく少数からしか返ってこなかった。それも大部分が儀礼的で本人が書いたものは極々小数だった。
たとえば、少しまっとうな手紙は、次のようなものであった。
「貴兄らの危惧されるところは、我らもかねてより強く懸念しているところであります。しかしながら、生物の進化にウィルスが深く関わっているように、コンピュータウィルスも情報化社会の発展に欠かせないとは云わないまでも、云わば必要悪として、ある種の生存権を得ていることは真実であります。この完全なる根絶はきわめて困難であり、その労力に対する効果は極めて小さいと考えざるを得ません」
しかし、中には、私たちを愚弄する内容のものや、いたずらとしか思えないようなものも少なからずあった。

私は、東京からY市までたびたび車を運転して行き、鎮男に直接これらの手紙を渡した。鎮男は、静かに手紙を読み終えると私に落胆の顔を向けた。
「こうちゃん、人間いうんは、ほんまにあほな生きもんやなぁ。茹蛙と一緒や。ゆっくりゆっくり温度を上げていくと、蛙は身動きもせんまま鍋の中で茹であがってしまういうこっちゃ」
「そやけど無理もない思うで」と、私は答えた。「まだ、鎮男ちゃんが心配しとるようなことは何にも起こっとらんわけやし、そもそも、こちらとしてもただ危機を仄めかすだけで、それがどんな危機なんかを具体的に説いてまわるわけにはいかんという、なんというかほんまにじれったいことをしとるわけやからな」
「まぁな」鎮男は、静かに立ち上がった。
どこへ行くつもりかと見ていると、隣の部屋へと続く扉を開けた。私は、この家にはもう何度となく訪れていて、居間の隣にもう一つ部屋があることを知っていた。しかし、その安っぽい木の扉の向こうにはまだ一度も足を踏み入れたことがなかった。
鎮男は、振り返って私についてくるよう促した。
驚いたことに、その扉の先にあったのは部屋ではなく、地下へ降りる階段だった。
深く急な「コンクリートの階段を降り切ると、右の壁にステンレス製の自動扉があった。鎮男は、扉についた指紋認証センサーに指を触れた。電子錠が解除される音がして、扉は右にスライドして開いた。
酒に卑しい私は、扉が開く直前までてっきりそこがワインセラーだと思っていた。しかし、とんでもない間違いだった。
広い地下室は、電子機器で溢れていた。左の壁に100インチもの大きなディスプレイが取り付けられ、冷却ファンの回る音と様々な色をした表示灯の明滅に部屋中が満たされていて、これで女の子が踊っていればディスコクラブと間違えたかも知れない。
しかし、水冷式のスーパーコンピュータが手前右奥のコーナーに置かれ、これにリンクした何台ものパソコンが四角い部屋の奥、7,8mもある一辺すべてを占める長い作りつけの机の上に並んでいるのを見て、ようやく私は、ここが電子の要塞であることに気がついた。
鎮男は、革張りの椅子に腰を降ろし、キャスターの付いた立派な椅子を私にすすめた。私はディスプレイの正面にその椅子を移動させ、そこに腰掛けた。

ディスプレイに明彦の写真が映しだされた。それは、彼が小学生のときのものだった。明彦は、ジーンズに白いTシャツという姿で、水色のワンピースを着た母親らしき理知的な顔立ちの婦人と肩を並べ、少年らしい満ち足りた、誇らしげとも面映げともとれる微笑を浮かべ、木漏れ日の下に立っていた。母親の白い帽子やワンピースに、そして明彦のTシャツやジーンズにも、その幸福のシンボルであるかのように、太陽の落とし児の小さな豹のような斑が浮かんでいた。