荒野のおおかみ

2013/02/04 12:36
荒野のおおかみ

なぜこの駄文に「荒野のおおかみ」などという大仰なタイトルを付けたか。いったいどのような思惑があってヘルマン・ヘッセの有名なファンタジーから題名を借用したのか。
それはわたしが、ヘッセが「荒野のおおかみ」を書いた齢50をとうに過ぎ、彼がこの小説を書くに至った動機、心理的状況というものを我がこととしてよく理解できるようになったから・・・、というよりもまさにこれを書いたときのヘッセの悩みこそが今のわたし自身の悩みであり、喫緊の問題であるというふうに感じているからなのである。

今、わたしはここでヘッセの小説の解説をしようとは思わない。それよりもわたし自身の今ある危機について書こうと思う。
かつて、紅顔の美少年だった十代はとっくの昔に過ぎ、また、わが左手がまさに女性のハンドバッグ状態であった二十代から三十代という麗しき時代もとうに過ぎた。そして四十代という男にとってのPrimeもまた過ぎていった。
今の有様はどうか。かつての恰も高級なハンドバッグのように女性の引く手数多だったわたしはいつしかサンドバッグとなり、今やよれよれの頭陀袋状態であるといってもよい。

定年が目前に迫り、老醜の押し寄せるひたひたという足音に身を竦ませている、というのが今のわたしの姿なのである。
ヘッセがわたしと同じ卑俗的な悩みを抱えていたとは思わない。彼はノーベル文学賞受賞者である。しかし、彼が自らを荒野のおおかみ(ステッペンウルフ)と名乗る男を主人公にしたのはなぜだろう。
ヘッセは、荒野のおおかみが猿とおおかみの間で揺れ動いている姿(取りも直さずそれはヘッセ自身の姿であったに違いない)を描きたかったのではなかろうか。少なくともわたしには、彼がこの小説を書いた時期、高貴なるものと卑俗なものとの間で逡巡を繰り返していたように思えてならないのである。

話は飛ぶが、昨年、Mark RowlandsのThe Philosopher and The Wolfを読んだ。読んで、ローランズと同じように、わたしも狼になりたいと思うようになった。
人というのは、狼に憧れこそすれ、けっして猿になろうとは思わない。これはなぜだろう? それは、そもそもわたしたち人間というものが猿の成れの果てだからである。

猿(simian)について、いやひいては人というものの醜さについて、ローランズは嫌になるほど、それこそ容赦なくと言ってもよいほどに見せ付けてくれる。その醜さたるや思わず赤面してしまうほどである。
それにしてもなぜ、これほどまでに彼は猿を嫌うのか。おそらくそれは、ローランズ自身が語っているように、彼がMisanthrope、すなわち厭世家であるということと無関係ではあるまい。
彼がbrotherとしてcubのときから育てたBreninはその実証であり、また猿の持つ醜さに光を当てる(ローランズによれば、狼を意味するギリシア語のlucosは、光を意味するleukosと近縁で、この本での彼の目論見は、狼によって人間のダークサイドに光を当てることにある、と述べている)ための反証でもあるのだ。

わたしは、猿についての赤面するほどの醜さを敢えてここに記そうという気にはなれない。が、それでもこれだけは書いておかねばならない。それは、性に関することである。ローランズはチンパンジーを例にこれを書いている。

彼らの社会が厳しいヒエラルキーで成り立っていることは、猿山の猿と同じである。
猿山を観察していると、餌の一番おいしいところは勿論ボス猿が真っ先に口にする。ボスに先んじて林檎を手にした猿は、間違いなく厳しい制裁を受ける。足に大きな傷を負ってびっこを引いている個体を見ることがあるが、恐らくこの傷は自分の分を弁えずに上位の猿に盾突いた結果であろう。
チンパンジーの社会においても、生殖に関してやはりヒエラルキーが厳然と存在していて、下位のチンプはなかなかセックスの機会を得ることができない。
しかし、下位のものにも性欲はあるから、彼らは雌に対して自らの怒張したペニスを見せることによって彼女たちの関心を引こうとする。しかし、これも自分より上位のものが見ていないときに限ってである。つまり、彼は自分より上位のチンプに見つからないように用心しながら自らのおっ立ったモノを雌に見せ付けるのだ。しかし、上位の雄もまた下位の者が雌の前でペニスをエレクトさせていないかに常に目を光らせていて、下位のチンプは彼に見つかったらこっ酷い制裁を受けることになる。
さあ、どうだろう。少し神経の細やかな方なら上に述べたチンパンジーの生態に思わず赤面してしまうのではないだろうか。
人間がパンツを履いた猿と呼ばれる所以がここに如実に示されているというふうにわたしには思えてならないのである。

狼はどうか。狼の場合、発情期は年に一回、多くとも二回である。おおかみもまた猿と同様に群れで生活するPack Animalだけれども、猿のように乱交ではない。生殖は厳格にアルファ雄とアルファ雌の間のみで行われる。有名なシートン動物記のロボとブランカはこのアルファ雄と雌だったということになる。
生殖の機会に与れない個体について、ローランズはこのように書いている。彼らは、喩えて言えば酒飲みに上戸と下戸がいるようなもので、下戸が酒を飲めないことになんら欲求不満を感じないのと同様、セックスができないことに彼らが不満を持っているわけではない。

さて、わたしについてである。わたしは、おおかみとして余生を生きるべきか。それとも醜いがenjoyableな猿として生きるべきか、それを問題としている。

かつてのわたしにもおおかみは住んでいた。荒野に生きようとする高貴な精神を持ったおおかみが。いや、今もわたしの中に老いて息も絶え絶えながらもこのおおかみは生きている。しかしまた猿の方もいっそう老獪になって、相も変らず元気に生きているのである。猿の持つ欲望は、この後何年生きようと一向に枯れそうにはない。

さあ、醜い狒々爺として老醜を晒しながらのたうちまわって生きるか。それとも高貴なおおかみを傍らに労わりつつ、静かに陋巷に身を窶しながら余生を送るか。答えは明らかであるはずなのになかなか決断ができないでいるのである。