愛するということ

2011/01/16 13:36


子供の頃から、わたしは愛とか、愛するという言葉が嫌いだった。たとえドラマの中であろうと、男女がこのような言葉を使う場面を見ると、気恥ずかしさと共に、何か嘘っぽさのようなものを感じた。
しかし、この言葉の意味を真に理解したのは、子供が生まれたときだった。それまでの無色だった愛という言葉に何か暖かい色が着いたような気がした。それまで気にもならなかった子供のおもちゃや子供向けの歌やディズニーのキャラクターが可愛いと思えるようになった。これは、いわばわたしの心のパラダイムシフトであった。

"The philosopher and the wolf " の中で、マーク・ローランズが親友であった狼のブレニンを失うシーンには涙を禁じえなかった。

ローランズは、ブレニンを見晴らしの良い空き地に埋葬する。そこは二人が散歩の途中でよく休憩した場所で、周りにはブナと樫の林があった。
ローランズはブレニンを埋葬した場所に墓標を造ろうとする。冬の寒風から村を守るために築かれた堤から石を拾ってきて、ブレニンを埋葬した場所に一つづつ落としていくのだ。堤まではおよそ200mも離れており、それは長く忍耐のいる仕事だった。一晩かかってその作業が終ると、ローランズは漂木を集め、火を起こした。そこでわが弟と一晩を過ごすつもりだった。
話は、その通夜に起きた出来事である。ローランズは、実はこの話はしたくなかったと書いている。それは、自分自身では少しの疑いも持ってはいないのだが、人は自分をサイコテックと思うであろうからだ。ローランズは、自分をアル中と言っているが、このときも、実は3人の友がいた。ニーナという名の犬とブレニンの娘であるテス、それにジャック・ダニエル氏だ。このような夜のあること予期していたローランズは、しこたまダニエル氏を仕入れていたのだ。
しかし、それまでの数週間、ローランズはまったくのドライだったと書いている。衰弱しているブレニンのために頭をすっきりさせておく必要があったからだ。

ローランズは、焚き火の前にじっと静かに伏せているニーナとテスの傍らで、神に対する冒涜の言葉を吐き続ける。
Come on then,you f*****g c**t! You show me. If we live on, you f****r, show me now!
と言った調子だ。
そして、そのとき、彼は焚き火の向こうにブレニンの姿を認めるのである。そのブレニンの幽霊はじっとローランズを見つめていた。それは、無意識に落としていった石の墓標であった。それが奇しくもブレニンの姿をしているのだった。
ローランズは堤から石を持ってくるとき、ただ取りやすい石を取って200m戻り、ブレニンを埋めた土の上に落としていっただけだ。
しかし、焚き火の向こうからこちらを見つめているのは石になったブレニンだった。それは、北極圏で彼の先祖達がやっていたように雪の中に蹲っている姿だった。

ローランズは言う。このようなことは、フロイト学派やユング学派の者達の手にかかれば、彼の無意識の願望がなせた業ということになるであろう。これには彼自身も強く反論していない。しかし、彼が判然としないのは、彼はただ石をそこに落としていっただけだったからである。つまり、彼が落とした石はただ自然の法則に従い、その場に留まることもあれば転がっていくこともあった。仮に無意識にブレニンの姿になるよう石を配置しようとしたとしても、必ずしも彼がイメージした通りにはならなかったであろうということである。

わたしは、ローランズの気持ちに与したいと思う。彼のブレニンに対する愛情がブレニンの幽霊を生み出したのである。それにジャック・ダニエル氏が協力したことは否めない。しかし、彼の心にブレニンの姿がなかったなら、決してそのようなゴーストは現れなかったであろう。
レオナルド・ダ・ヴィンチが言ったように、人というのは壁の染みにさえ様々なイメージを想起することができる。
アルコールなどによって、理性の部分が少なからず抑制された場合、人は恐らく理性の目では決して見えないものを見ることができるのだ。それは、感性の力によるものであり、いま人間が一番失いかけているものと言っても良いのではないだろうか。