ローランズについての考察3

2012/11/15 11:42

英語圏においては、たとえばシェークスピアハムレットを読んで「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」という言い回しがこんなに昔から使われていた、ということに驚く人が少なくないという。つまり、出典がシェークスピアであることが分からなくなってしまっているのだ。

先に"The Philosopher and The Wolf" から抜粋した中にも to thine own self be true というシェークスピアのクォートがあったが、要はシェークスピアがこれほどまでに英国人、あるいは英語圏の人たちの口に膾炙していて、今ではそれがシェークスピアが出典であることさえ知らない人たちが巷間に溢れているということなのである。

なぜこんなことを書くかというと、実はわたし自身も幸福についての持論をたびたび披瀝しているのだが、それを読み返してみて、果たしてこれはわたし自身のオリジナルの考え方、大仰にいえば思想なのだろうか、と疑問に思えてきたからなのである。
わたしの幸福論とローランズの主張する幸福論とが一卵性双生児のように、あまりに似通っているために、わたしの幸福論はひょっとしたらローランズからの剽窃に過ぎないのではないか、という錯覚に陥ってしまいそうなのだ。

かつてゲーテが言ったように、他人の著作や思想は、恰も肉や魚や野菜が血肉となるようなもので、たった一つの書物によってその人の精神が構築されるわけがない。
だから、わたしの幸福論がたとえローランズの影響を受けているにせよ、ローランズの述べる幸福論そのものとは決して同じではないはずである。

ローランズが述べているのは、結局人間はTemporallyな動物、すなわち時間を矢の動きとして捉える、・・・したがって矢が的を目指すのと同じように人生の意味をその的、つまり目的や幸福として捉えがちであるのに対し、狼は瞬間、瞬間を生きているとしている。
そして、たとえこのことに気が付いたとしても、人間はその内なるsimianによって、またしても人生最高の輝かしさを矢の行方や来し方に求めてしまう、つまり未来や過去に捉われてしまうという本質を持っているのだと指摘するのである。

ということで、この続きは後日書くこととしよう。