悲母観音像 2

2013/02/26 10:14


幸いという言葉を使って良いのだろう。比較的患者の少ないこの国立病院で、陽子は、ほとんど専属のように大樹を看てきた。
8年間、この子は、両祖父母からもまるで厄介者のように扱われてきた。陽子は、この子の両親が互いの親の反対を押し切り、駆け落ち同然に一緒になったことを風の噂に聞いていた。お互いに反目しあう祖父母どうしは、決して不憫な孫を自分たちで世話してやろうとはしなかったのだ。
彼女は、大樹が目を覚まさぬよう気を使いながら清拭を続けた。そして、ふと窓の外に目をやった。
「この子は、病院の敷地から一歩も外に出たことがない」その思いがまたしても彼女の胸をよぎった。
大樹は、彼女が天気のいい日に特製の車椅子に乗せて一時間ほど病院の敷地を回る以外には、外の世界をまったく知らないでいた。まるで、小さな水槽で飼われている金魚のように。そして、ここ三日間は生憎の雨だった。

陽子は、窓の外の憂鬱な空模様からふとベッドの真上に仕掛けられたディスプレィに目を移した。少ししゃがんだ姿勢で下から画面を見上げると、そこには大樹の好きな数学の教科書のページが映し出されていた。陽子の顔に笑みが浮かんだ。

大樹は素晴らしい頭脳の持ち主だった。10歳にして小学生レベルの学業では満足できず、すでに中学生の教科書を使って勉強していたが、それでも物足りない様子だった。

画面に表示されていたのは、三角関数について記述された部分だったが、教科書と並行してノートが表示されていて、そこには、大樹のいたずら書きが記されていたのだ。
「こんなものを中学生のお兄ちゃんたちが一生懸命勉強していると思うとおかしくなっちゃうよ」
それは、間違いなく陽子に対するメッセージだった。

彼は、有名なイギリスの物理学者ホーキング博士のように特製のコンピュータを使って勉強しているのだった。彼が言葉で指示するとおりにコンピュータは動作し、必要な情報を彼に与えた。このシステムを開発したのは、N大学の椿野教授を中心とする研究チームだった。彼らは、足しげくこの病院に通い、大樹にとって最高のシステムを完成させてくれた。
ホーキング博士のようになってくれよ」髭もじゃで髪の毛がぼうぼうの椿野は、いつもGパンにTシャツという格好でやってきては大樹にたびたびそう言葉をかけた。
「ぼくは、宇宙なんかに興味はないな」大樹は、そのたびに笑いながらそう応える。
「じゃぁ、いったい、君は何になりたいの」と、流行りの眼鏡をかけた女性の助手が意地悪げな質問をしたことがあった。
「ぼくは、この悲惨な世の中を少しでも良くしたいんです。だから、ぼくが一番興味を持っているのは、社会と人間についてなんです」大樹は、真剣な眼差しでその女性を見た。
「ああ、君ならきっと出来るよ」椿野は、力強い声で言った。「君のその目を見ていると、きっとその夢を実現するだろうと私にも分かる」

そうして、システムが完成してからは、しばらく大樹から離れていた椿野であったが、最近再び、新たなフィールドを開拓しようとしているらしく、ちょくちょくと大樹のご機嫌伺いに病院に姿を現すようになっていた。どうやら、彼は、ニューロマチックとか自身で名づけたシステムの開発を目論んでおり、そのモルモットに大樹を利用するつもりでいるらしかった。

それはともかく、そうして今のシステムが大樹のものになったのは、彼が7歳のときだった。仰向けになったままで画面が見られるよう、天井から丈夫な支持棒が吊り下げられ、それにディスプレィとカメラとマイクが仕掛けられた。
このシステムのおかげで、教師たちも交通の不便なこの病院にまで毎日足を運ぶことの免罪符を与えられた。教師たちは、双方向のテレビシステムによって、大樹に一日4時間、一対一で勉強を教えれば良かった。

しかし、すぐに小学校の教師たちは、大樹の並外れた知能に舌を巻くことになる。自分たちの教えていることが、この子にとっては、余りに簡単すぎて苦痛以外のなにものでもないことを思い知らされたのだ。
彼らは、次第に大樹が自分たちを試すかのように挑戦的な高度な質問をしてくることに慌てはじめた。その結果、教育委員会は、古川大樹には中学レベルの教育が相当であると認め、小学校ではなく中学の教師たちが彼の教育担当に任命された。