推理小説?もどき 悲母観音像

2013/02/26 10:12
古川大樹シリーズ 第一話

悲母観音像(仮題)

古川大樹は、2歳のときから10歳の今日に至るまでずっと病院での生活を余儀なくされてきた。病気に罹ったわけではない。それは、まるで突然闇が落ちてきたかのように、余りに唐突に彼の人生に襲い掛かってきたのだ。
その日の夕刻、彼の2歳の誕生日を祝うため、両親は近くのレストランを予約して、ささやかな3人だけのバースディパーティを開くつもりだった。
勤めを終え喜び勇んで家に帰ってきた父親は、愛するわが子を軽自動車の後部座席にセットしたベビーシートに乗せるとベルトをロックした。

「かちゃっ」大樹が条件反射のようにかわいい声を発した。
「ああ、たいちゃん。カチャッだね」父親は満面に笑みをたたえながら言った。助手席から首を後ろに回して妻も一緒に笑った。

そうしてレストランに向かう途中の交差点で、無謀運転の若者が赤信号を無視して横から突っ込んできたのだ。
両親は、幼子を残して二人とも死んでしまった。一人残された大樹は、首の骨を折って一月もの間、生死の境をさまよった。32日目に意識が戻ったが、もはや首から下が動くことはなかった。
さらに不幸なことには、この子には他に頼れる身寄りがまったくなかった。両親ともにひとりっ子で、そのどちらの祖父母も可愛いはずの孫を引き取ることを拒んだのだ。
無謀運転の男は、交通刑務所に1年入っただけで、出てきても定職に付くことなく、毎日ぶらぶら過ごすだけだった。男は、自賠責保険さえ切らしていたので、両祖父母は、自分たちにまとまった金の入る可能性が全くないことが分かると、さっさと賠償請求の権利を放棄した。つまり、お互いに厄介になった大樹を押し付けあおうとしたのである。
大樹は、わずか2歳にして孤児になったばかりか、今後の生涯を国家のお情けに頼って生きていくしかなくなってしまった。

杉並区にあるS子供病院のナース白旗陽子は、大樹が初めてこの病院に運ばれてきたときからずっと彼を看ていた。彼女は、特床室に入れられた幼い大樹を初めて見たとき、その痛ましい姿に思わず涙した。
乳児用のシートに護られて、身体には何ら損傷がないように思われたが、首を固定するためにはめられたギプスや栄養補給などのために入れられたチューブ類が痛々しかった。
脳自体にもまったく損傷が認められなかったが、大樹はこの病院に移されてからも10日間、目を覚ますことはなかった。陽子には、それが大樹の現実に対する必死の抵抗のように思われた。幼子とはいえ、自分を愛してくれた両親の喪失を知るほどの悲しみが他にあるだろうか。

今年30歳になろうというのに、陽子は独身だった。中肉中背で色が白く、大変な美人でもあるのに、何故と聞く者も少なくはない。陽子は、その疑問に自分でも答えかねていた。30という大台にもうすぐ乗ろうというのに、自分には同じ境遇の同僚たちとは違って、焦りというものがまったくない。逆にその事の方に焦りを感じてしまうというような有様だ。自分は、どこか人生観というものが他人とは違っているのだろうか・・・・・・。
陽子は、熱いお湯で固く絞ったタオルを何本か入れた籠を手に、そーっと大樹の病室のスライド式の扉を開いた。大樹は安らかな寝息をたてていた。
陽子は、そのあどけない寝姿にいつもの思いに捕らわれる。
自分は、この子がいとおしくてしようがない。ときには、この小さな男の子がわが子のようにさえ思える。そして、そのことを意識として脳の表層に浮かび上がらせるたびに、最近では葛藤を覚えるようになっていた。
いや、そうではない。と陽子は、まさに蔦や藤の蔓のように大脳皮質からむくむくと伸び始めたその意識を、はっと眠気でも振り払うように追い立てる。私は、この子や看護師という職業の忙しさにかこつけて、女にとって最大のターニングポイントである結婚からただ逃げようとしているだけなのだ。
陽子は、大樹のベッドに歩み寄った。
「あの日からはや8年にもなる」
陽子は、ベッドで眠る大樹の頭に比して異常に細く小さい手足、そして痩せた胸や腹を暖かいタオルで拭いてやりながら思う。
あの日、真っ先にこの子の意識の回復を確認したのはこの私だ。陽子は、そのときのことを良く憶えていた。
あのとき、陽子は、大樹のまだ小さな身体を抱き起こし口に差し込まれたチューブから流動食を流し込んでやりながら、彼に優しく話しかけてやったのだ。
「たぁいちゃん」と、彼女は呼びかけた。そのとき、微かに大樹の目がしばたたいたように思えた。