人間原理と神の存在について

2010/05/10 21:52


以前にわたしは人間原理の信奉者であると書いた。と言っても、別に「人間原理」教という宗教があるわけではない。というより、これは物理的な考え方、宇宙観なのである。
ところで、物理と宗教とはいつもお互いに相容れないものとして反目しあってきた。仲の良かった時期もあるにはあったが、本質的には犬猿の仲であるといってもよいだろう。

たとえば、アメリカなどにおいては、ファンディ(根本主義者)と呼ばれるキリスト教の信者が多数住む地域があって、そこはサンベルトもしくはバイブルベルトと名が付いているらしい。そのような地域にある学校では今も天動説を教えていたり、ダーウィンの進化論などは神を冒涜するものとして教えることを躊躇する教師が多いという。
しかし、このような地域にもファンディの科学者は大勢いる。
それは、八百萬の神が存します日本にも優秀な物理学者が多数いるのと同じことである。

たった今、物理と宗教が根本的に相容れないものであると書いたばかりだが、上にも示すとおり、相容れないはずの両者の間を巧みにすり抜けるようにして、物理学者も遺伝学者もまた化学者も存在するのである。
これらの人々は実に功利主義的な生き方を学んだに違いない。
神とも自然の摂理とも折り合いをつけて、自分自身を見失わない生き方を見つけたのだと考えても良い。

さて人間原理についてだが、この考え方はそう新しいものではない。1974年にケンブリッジ大学の天文物理学者ブランドン・カーターによって提唱された。
彼は次のような言葉でこれを定義している。
「・・・私たちが観察することを期待しうるものは、観察者としての私たちの存在を必要とするという条件によって制約が課されなければならない」

これはどういうことかというと、この宇宙の歴史を考えてみればよく分かる。今わたしたちが生存しているということは、実に奇跡以上に奇跡的なことなのである。なぜなら、ビッグバンから始まったとされる宇宙は、その初期から今日に至るまで、たった一つでも何か間違いがあれば、人類が生まれることはおろか、地球や太陽が存在することもなかったからである。

ノーベル物理学賞を受賞した益川教授のCP対象性の破れを説明する理論は、ビッグバンの初期において、もしも物質と反物質の量が同じであれば、この世に物質は存在しなかったことを逆に証明するものである。

このように、この宇宙を形成する様々なパラメータの一つでも現在と違っていれば、この宇宙は存在せず、したがって「わたし」も存在しなかった。
ブランドン・カーターのいう私たちが観察しうるものとは、この宇宙における現象のことであり、それは私たちが存在することによって観察されるのであるから、当然に私たち人間の存在に制約を受けたものであるはずである。

これは、そのまま「この宇宙において最も不思議なことは、脳がそれを理解できるということである」という、アインシュタインの疑問への答であるとも言えよう。

ところで、人間原理とは、神を全く否定するものであろうか。
たしかに、人間原理をあらゆることに敷衍して考えるなら、神の存在を否定することは可能である。
なぜなら、すべては神の計算によるものなどではなく、偶然の産物だからである。
逆に言うなら、宗教とは、この世に起きる、あるいは既に起きてしまった現象を必然的である、あるいは予定されていたと考える学問である。
しかし、人間原理はそうは考えない。この宇宙は、無限にある宇宙のたった一つの姿に過ぎず、しかもその変化していく過程のごく短い期間しか認識できないものとして捉える。なぜなら、それ以外の大部分の期間には観察者は決して物理的に存在できないからである。

すべては偶然の結果にしか過ぎないのに、人間は、自分やその周辺の環境があまりに自分たちに都合よく作られていることに驚き、これは神の配剤に違いないと考えてきた。人間原理はこのような考え方にいわば水を差すものである。

こう述べてくると、人間原理とは神の存在を否定する理論のように見えなくもない。しかし、実はどこにも神を否定すると書かれているわけではない。ただ、この世が偶然の産物、言い方を変えれば、無数にある世界のうちの一つであるという考え方を示しているに過ぎない。しかもそれは、ごく平凡な一つである可能性が高いという考え方なのである。
しかし、仮にこの世が無限にある宇宙の姿の一つに過ぎないとしても、その中で進行している事象が偶然によるものかどうかはまだ突き止められたわけではない。
わたしが存在し、今このようなものを書き、あるいは今あなたがこれを読んでいること自体が必然である可能性は誰にも否定できないのである。

人間原理とは、観察者である「わたし」には、この宇宙が「わたし」を産み出すべく都合よく作られたように見えるという、いわば自己中心的な天動説から地動説へ回心を導くものと言えるかも知れない。