「武士道」に惚れ込む

2013/07/26 09:55


「武士道」は、ほのかな桜の香のする名文である。

新渡戸は、あるベルギーの教授と散策中に、ふとその教授の漏らした日本人に対する疑問に自身が即答しかねた、そのことがこれを書く一つの動機になったとしている。
ベルギーの教授の疑問というのは、日本人は宗教を持たないというが、それではいかにして道徳の基準を確保し得るのか、というものであった。

また、新渡戸の妻はアメリカ人でクェーカー教徒である。その妻がやはり折につけ呈する日本人の習慣やものごとのとらえ方についての疑問がこの書を著す直接的なきっかけになったとしている。

武士道の中に「礼儀」についての一章がある。それを読んでいて、あっと気が付いたことがある。ああ、今や人口に膾炙しているとさえいえる「これ」の元は新渡戸の武士道にあったのだ、という驚きである。
アメリカ人はプレゼントをするとき、「これはこんなに素晴らしいものですよ」などという言葉を添えて渡す。それに対し、日本人は、「このようにお粗末なものですが」と言葉を添える。
アメリカ人、・・・いやアメリカ人だけではない、西洋の人にとっては、日本人の言動はすべてあべこべに映るというわけである。
しかし新渡戸は、この二つの贈答という行為について、相手を慮る態度に優劣はないのだ、としている。
アメリカ人が贈り物そのもの、つまり物質に重きを置いているのに対し、日本人の態度はその精神性に重きをおいていることから生じているとしているのだ。

また、日本に20年ほど在住したあるアメリカ人の宣教師夫人は、日本人の礼儀について awfully funny つまり、とっても奇妙であると新渡戸に言った、とある。
それがどのように奇妙なものであったか。
ある日差しの強い中、彼女は日傘を差さずに立っていた。すると、そこへ知り合いが通りかかった。彼女が声を掛けて呼び止めると、そのひとは帽子を脱ぎ、ついでに傘まで閉じて畳んだ。これが彼女には「とっても変」に映ったのである。

日本人であれば、たとえいまどきの若者であっても、この日本人の行動を奇妙なものと思う者はいまい。むしろ、当然と感じるのではないか。
ところが、この宣教師夫人にしてみれば、とってもおかしい、のである。

新渡戸はこう説明している。これは、日本人のやることはみんなあべこべで奇妙だという西洋人の偏見からわが民族の名誉を救うためのものであったわけであるが、これによりセオドア―・ルーズベルトのような人物に日本人の真の価値を知らしめ、日露終戦交渉の仲裁役をかってでるほどに日本びいきにするほどの影響をも与えたのである。

新渡戸は、この日本人の真情をこう説明している。
このひとが帽子を脱いだのは西洋も東洋もない当然の行為であるが、傘を閉じるという行為には帽子との関連性はなく、それは、あなたがこの日差しの中、暑くて不快な思いをしているのに、話の相手であるそのひとが自分だけ日傘を差しているのは甚だ尊大な態度とそのひとには感じられ、そのような行為はとても許しがたいものに思われたのです。それ故にそのひとは、特に何か考えてというわけではなく、ごく自然に傘をたたんでしまったのです。

とまぁ、上のような、日本人なら至って当然の擁護をしているわけである。

わたしは、「武士道」を読んで、改めて日本人が培ってきた文化、伝統のすばらしさに目を見開かされた気がしている。

と同時に、そのようなすばらしきものが日々廃れ滅びようとしてきていることに、あたかも朱鷺が、あるいは貴重な動植物が絶滅していくのを座視しているようなもどかしさと恐ろしさ、それに無念の入り混じった感情を覚えてしまうのである。