冷たいと寒い

2013/09/10 10:58

朝晩涼しく感じるようになった。いつの間にか、太陽は高度を落とし、季節は確実に秋へと向かっている。
雲の形が夏のものとまったく違う。綿から絹へと衣装替えしたみたいだ。

それにしても、である。今朝の通勤時に考えたことだが、なぜあれほど暑かった夏が懐かしく感じられ、秋へと向かうことが寂しく思われるのだろう。
ひょっとすると、渡り鳥の心境というのもこのようなものなのかも知れない。なじかは知らねどこころ寂~びて、という気持ちに鳥たちもなるのではないか。
飛躍するようだが、あの幸福の王子に従った燕もさぞかしエジプトが、そしてそこに帰っていった仲間たちが懐かしく、また寂しい思いにとらわれたのだろうなと、たかがおとぎ話に過ぎないものにさえ、そのような感懐にとらわれて仕方がないのである。

さて、その寂しいという心持についてだが、「冷たい」が実は爪痛いを語源とするというように、これを辿っていけば必ず寒いという語に至るに違いない。
だいたい、夏に向かおうというときに寂しいという言葉は似あわないし、そんな俳句や短歌にお目にかかったこともない。大抵、ひとが寂しさを感じるのは秋口と決まっている。

では、なぜ寒いが寂しさにつながるか、ということについてであるが、これは別に理論だてする必要さえないと思われる。が、敢えて理屈を言うなら、やはり太陽と関係しているのであろう。日が短くなり、その日射量も衰えたときに感じるのは、「火が消えたようだ」というあの感覚だと思うのである。

火が消えたよう、というのはもちろん比喩であるが、実際に海岸で流木を集めて焚火をしていたとして、その火が衰え、辺りも薄暗く、やがてちらちらしていた火も燠のようになったときに感じることというのは、たとえばいつも周囲を明るく賑やかにさせていた友達が転校とか転勤とか退職とかでいなくなってしまったときに感じる寂しさと同じものではないだろうか。

やはり、わたしたちは太陽に大きく影響されている。わたしたちの身体と心は、一億五千万キロメートル離れた天体と強くリンクしているのである。