時間は流れているのか

2013/09/22 14:00


以前、コンゴというマイケル・クライトンの小説を読んでいて、とても気になる箇所があった。本筋とはまったく関係のないことなのだが、ゴリラの時間認識について述べているところがあるのである。

それによると、ゴリラのMayにとって、未来は前方にあるのではなく、背中の方にあるらしいのだ。ちょっと考えてみるとこれは妙なことである。なぜなら、時間という基本的なことについて同じ高等霊長類であるゴリラと人間とでこれほど大きな違いがあるというのはいったいどうしてだろう。そもそも時間というものがいかに理解しがたく、視覚による空間的比喩以外に翻訳のしようのないものであることを示している。

アインシュタイン以来、時間と空間は時空として互いに相対的な関係にある物理量として考えられるようになった。しかし、ごく普通の生き物にとっては時空も物理量もあったものではない。
ゴリラのMayにとって、未来とは未知であり、前方に見えるものは既知である。だから、彼女が未来を見えないもの、すなわち背中側にあると認識することに不思議はない。

話は飛躍するが、マーク・ローランズは『哲学者とオオカミ」の中で、Time Arrow 「時間の矢」という一章をもうけ、マルティン・ハイデッガーの「存在と時間」に言及している。それによると、人間とは時間的な存在だそうである。なぜ人間が時間的であってオオカミがそうでないかというと、オオカミにとっては今という瞬間がすべてであって未来も過去も存在しないに等しいから、だそうだ。
確かに人間は、その知能ゆえに膨大な過去を抱えこみ、さらには自らの幸福実現という未だ来ないもののために今を汲々として過ごしている。

さて、オオカミと人間とどちらが自然で幸せかというような問題は別にして、時間についてである。

果たして、時間とは河の流れのように流れていくものなのだろうか。
わたしのような運命論者にとっては、答えは否でしかありえない。

以前にも述べたが、時間とは円周率のπやネイピア数といわれるeのようなものである。スパコンの性能確認のためにπなどは、今現在も何兆桁にもおよぶ数字の列が確定されていっているが、それが何兆、何京に及ぼうとも終わりがあるわけではない。

この喩はもちろん、運命論的な時間認識について述べているのである。すでに未来は、というより、この宇宙という時空は決定した、いや固定したものであって、その始めから終わりまでが決定されてしまっている。
わたしたちが現在と呼んでいるのは、スパコンがたった今明らかにした数字のことなのである。